古びたキッチンのテーブルの上では、少し焦げた目玉焼きが湯気を立てていた。
「あ、おはよう、お父さん」
制服の上にエプロンを纏った娘が、私に向かって微笑みかける。腰まで伸びた髪に白い肌。本当に、出会った頃の妻にうり二つだ。
「なに? 何か変なところでもある?」
「いいや、なんでもないよ。おはよう」
あいつが出ていってからは、食事は娘の亜梨沙が作ってくれていた。最初はひどい味だったが、今はちゃんと食べられるレベルに到達していた。
……もっとも、どんな味であろうと、食べることには変わりなかったが。
私は新聞を手に椅子に腰掛け、箸に手を伸ばした。
新聞の日付は2037年9月30日。ノストラダムスがへまをして、本当に過去の人物になりはててから、38年ほど経っている。
「父さん、行儀わるいよ?」
「ああ、分かってるよ」
そう言いながら、私は新聞を開いた。
「もう。分かってるだけじゃダメなのにぃ」
私は頬を膨らませた亜梨沙を隠すように、新聞を顔の前に持ってきた。
新聞といっても、環境問題と社会問題がわずかに載っているだけ。しかも、日に日に薄っぺらくなってきている。
理由は簡単だ。21世紀になってからネットワーク技術が飛躍的に発達し、人間同士のつながりが強化されたからだ。そのため、互いが互いの言い分を理解し、争いらしい争いも存在しなくなり……新聞のネタがなくなってしまったのだ。
ただ、それが人と人が互いを理解しあった結果なのかと言われると、なかなか判断が難しいところだ。私としては不自然な気もするが、それが少数派な意見であることも知っている。……少なくても、出ていった妻と私は、最後まで意見が合わなかった。
娘は私が新聞を折り畳むのを待って、口を開いた。
「父さん。新聞はそれくらいにしないと、葉月さんがきちゃうよ?」
亜梨沙はそう言いながら、豆腐の入ったみそ汁を私の前に置いた。
「そうか。そんな時間か」
「そうだよ。あの人、几帳面だから」
「それが仕事だからな」
ピンポーン。
そう言った途端、玄関のベルがなった。
「社長、葉月です。お迎えにまいりました」
時間は、スケジュールどおり。秘書の葉月薫は、本当に几帳面な女性だ。
「どうするの、父さん。ご飯まだでしょ? 待って貰うの?」
「それも何か悪いな。……亜梨沙。薫くんの分も用意出来るかい?」
「うん。作り過ぎちゃったくらいだもん」
そういうと、亜梨沙は玄関へ向かって走っていった。
……テーブルの上には、ちゃんともう1人のための食事が用意されていた。
私を起こす時間をわざと遅らせ、そして余分にご飯を作って待っているところを見ると、亜梨沙はよほど薫が気に入っているようだ。いい兆候だな。
やがて亜梨沙は、スーツ姿の薫を連れて戻ってきた。
「……社長、まだそんな格好なんですか?」
薫は眼鏡のレンズ越しに私を睨んだ。
才色兼備の彼女は、どんな表情もよく似合う。
「そんなことを言わずに、一緒に朝ご飯でも食べないかね。どうせ朝は流動食だったのだろう?」
「……え、は、はい。そうですけど……本当によろしいのですか!?」
思わぬ言葉だったのか、薫は目を白黒させた。
「やはり、口に合わないかな?」
白いご飯、塩シャケ、目玉焼き、おみそ汁。極めて質素な朝ご飯だし、スーツ姿の女性が食べるには相応しくないように思えた。
「い、いえ、頂かせていただきます!」
それまでの秘書の雰囲気をかなぐり捨て、薫は開いている席に座った。
「ちゃんと君の分も亜梨沙が作ってくれてある。ゆっくりと食べていいよ」
「あ、ありがとうございます!」
一品一品口に運ぶたび、薫の瞳が至福の色に染まる。
「どうかね」
「……お、美味しいです」
言葉をしゃべるのも勿体ないとばかりに、薫はどんどんとご飯を平らげていった。
「おいおい。そんなに慌てて食べなくてもいいじゃないか」
私がそう声を掛けたころには、薫はほとんど食べ尽くしていた。
薫はご飯をきちっと食べ尽くし、大きく息を吐いた。
「ご、ごちそう様でした。……ありがとうございました」
幸せそうな表情をさらに
「……悪いが、私はまだ食事中だ。コーヒーでも飲んで待っていてくれ。亜梨沙、薫くんにコーヒーを」
「こ、コーヒーまで!? ほ、本当によろしいので……あいたっ!」
慌ててテーブルに膝をぶつけた薫から視線を逸らし、私は自分のご飯と向き合った。
本当に質素なご飯だ。……30年ほど昔なら。
天然の大豆を使った豆腐と味噌。合成ではない白いご飯と卵焼き。これだけで、薫の3ヶ月分の給料に匹敵する。……いや、コーヒーも合わせれば4ヶ月分か。
悪い冗談としか言えない現実が、私の周りに渦巻いていた。
今や、昔の庶民の生活は、金持ちしか味わえない道楽でしかないのだ。
現在の庶民は車が給油するように流動食を流し込み、同じルーチンワークを繰り返す機械のような存在だ。当然、朝の会話や団らんなどもないし、その必要性も感じていない。出ていった妻もそうだった。……薫はどうだろう?
「薫くん。コーヒーは口にあったかな?」
「とても美味しかったです……」
「おかわりが欲しければ、いくらでも飲んでいいぞ?」
「い、いいんですか!? お、御願いします」
薫の瞳の色を見る限り、どうもそうではなさそうだ。
私はコーヒーを楽しむ薫と亜梨沙の姿を見ながら、卵焼きに箸をつけた。
こんな暖かい雰囲気で朝の会話を交わしながら、焦げた目玉焼きを食べられるなんて、私はなんて幸せなんだろう……。