オペラ           序章 開幕  宏史、ひろしぃぃぃ  また同じ夢を見ている。今までに何度でも見た夢。父や母の夢だ。彼には母が二人いる。  良介父さん、千枝子母さん。ごめん、ごめんよ。僕はずっと、二人をあざむいてきた。二人の前では、二人に素直な息子を演じていた。  宏史、ひろしぃぃぃ  また別の声が彼に呼びかける。もう一人の母だ。  幸世母さん。ごめん、ごめんよ。僕はあなたの愛に応えられない。いや、あなただけじゃなく、千枝子母さんや、良介父さん・・・誰の愛も受け止められない。僕は誰にも愛されず、誰も愛さない。愛しているという芝居をしているだけなんだ。  宏史、ひろしぃぃぃ、ひぃろぉしぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ 「!」  早川宏史は目を覚ました。 「また、あの夢か・・・」  時計はまだ深夜を示している。  額の汗を拭い、暗いビジネスホテルの部屋の灯りを点けた。  机の上には、缶詰になってようやく書き上げたシナリオと、幾つかの曲データや歌詞の入ったノートパソコン。  彼の脳裏には、一人の少女のソプラノが躍っていた。黒髪に澄んだ青い目。数年ぶりに見た成長した姿がまぶしく感じられた。  無表情な胸の奥でちろちろと、やがてごうごうと燃えさかるであろう炎が熱を持っている。 「オペラ・・・いよいよ、始めるか」           第一章 ヒロイン登場 「どういうつもり?」  早川演劇興行事務所の社長室のドアを開いたとたん、緑の不機嫌な声が耳に飛び込んできた。反射的に腕時計を見ると、午後五時五分。約束の時刻を少し過ぎているが、お叱りを受けるような遅刻ではない筈だ。 「勝手に一ヶ月も旅行に出て、帰ってきたと思えば何?女の子を連れて帰ったから、住む場所を都合しろですって?」 「別に情婦を連れてきたわけじゃない。説明しただろ?」  どうやら緑が食ってかかっているのは、応接机を挟んで座っている男の方らしい。恭介にはそれが誰だかはすぐに分かった。相変わらず妻に対してもドライな口調の、早川宏史であった。 「お話中に失礼します。」  出来る限り平静を装って、恭介はやや剣呑なムードの夫婦の会話に割って入った。 「ああ、東君。ごめんね、すぐ話も終わると思うから、こっちに座っててくれる?」  緑に勧められるまま、恭介は二人掛けのソファの緑の隣に腰を下ろした。夫婦が向き合って座っているのに、それぞれの隣には異性が寄り添うという、いささか妙な構図だった。  宏史の隣には長い黒髪に黒い眉毛ながら、色の抜けるように白い肌をして、ギリシャ彫刻のように整った目鼻立ちの女が座っている。どことなく日本人の面影があるところを見ると、日系の混血児というところだろうか。年齢は少女と言っていい歳かも知れない。まるでサファイアのように青い瞳が印象的だ。 「黙って出たのは悪かったが、新しい舞台のシナリオを練っていたんだ。この娘を今度の舞台で是非使いたいんだよ。」  そう言って宏史は、机の上の紙束を顎で指し示した。ワープロで印字されたシナリオと、五線譜が数枚だ。  緑はいきり立った胸を落ち着けようと、すーっと大きく息を吸っては吐いた。女の子が愛人ではないという言葉よりも、宏史が「悪かった」と一応は謝ったことで、彼女も納得しようと考えたようだ。 「まあ、事情は了解したわ。新作の舞台をやりたい、脚本と演出をあなたがやりたい、そして私にプロデューサーとしてスポンサー集めやら劇場・役者の手配やらをやって欲しい。それはそれで結構よ。でも・・・」  緑はすっかり仕事熱心な女社長の顔になって、無表情な夫に差し出されたシナリオ原稿をぱらぱらとめくった。 「なぜオペラなの? 躍動感のあるミュージカルの方が、今時は受けが良いのではなくて?」  恭介はオペラとかミュージカルという言葉の、漠然としたイメージを思い浮かべた。  オペラ・・・歌劇。歌唱を中心に器楽・舞踊を加え、歌手が扮装して演ずる舞台劇。対話の台詞を交えたオペラ・コミックというのもあるが、歌だけで物語を表現するものもある。あくまでも歌が中心ということで、恭介にしてみれば舞台演劇というよりは音楽会のイメージが強い。「オペラを書く」と聞くと、早川宏史のような作家がシナリオを書くということよりも、音楽家が楽譜を書くという印象があるくらいだ。  対してミュージカルは、娯楽的要素の強いオペレッタの流れを汲み、演劇・舞踊の要素を加えた総合的性格をもつ音楽舞踊劇。音楽(歌)があって、踊りのある演劇と言えば、オペラと変わりないようにも取れる。だが恭介にはダイナミックな振り付けのダンスの印象が強い。あくまでも歌を中心に表現しようとして厳粛な感を拭えないオペラよりも、より動きのある見た目の派手なショーというイメージがあって、個人的にはオペラよりも馴染みやすい。  多分緑は興行の宣伝のしやすさを考え、楽しいイメージが若い年齢層に浸透していると思われるミュージカルに路線変更しないと、観客を動員できないのではないかと言いたいのだろう。宏史が持ってきたのはまったくの新作であって、海外などで実績のある名の知れた既存のオペラではないのだから。 「素材がある。」  宏史は無表情なまま、目だけを少女に向けた。素っ気ない起案理由だった。緑の眉がひくりと動くのを、恭介は黙って見守った。 「ジェニー・黒井。十八歳の日系ハーフか。ニューヨークで拾ったこの娘、そんなに歌がお上手なの?」  緑は挑戦的とも思える眼差しを、少女から夫に向け直した。「拾った」という言葉に、緑の女としての情念が感じ取れる。夫がどこの馬の骨とも知れない少女のためだけに、一ヶ月も家を空けてリスクの大きい仕事までぶち上げようとしているのが気に入らないのだ。恭介は平静を装うのに苦労していたが、宏史は相変わらず無表情でまったく動じていない。そのことが却って緑の不機嫌を募らせたようだ。 「新進劇作家の、早川宏史さんのおメガネに適うほど?」  ゆっくりとした、ややくぐもった声だった。心の中に噴き出しているものを、表面に出さないように努力しながらの言葉である。そして押さえきれない輝きを宿した目を、緑は再びゆっくりと青い瞳の少女に向けた。  びくりと微かに肩をすくませて、ジェニーはすっと両腕を胸の前で組んだ。微かにおびえたようなしぐさをさせるのは、緑の猜疑心に満ちた目だ。恭介はそれでも平成を装っている気丈な少女の、居たたまれないであろう心情を察して気の毒になった。  助け船を出そうかと恭介が口を開き掛けたとき、ジェニーが目を閉じてすーっと深く息を吸い始めた。 「m〜mm、mmmーmmmm〜」  恭介は一瞬呼吸をするのも忘れて、ジェニーの閉じた目元に見とれた。そのハミングは驚くほど透明で、豊かな水の流れのように溢れてきた。 「メームリーズ、ライトザ・コーナーゾ・マイマァーイン」 「THE WAY WE WERE 追憶」という歌だ。情感を込めているかいないか、如実に聞き手に伝わってしまう歌である。そしてジェニーの歌声は、バーブラ・ストライザンドもかくやと思われるほど胸を揺さぶるものだった。多少荒削りであるが、それを補って余りある緩急・高低のリズムの良さと声色の深さだ。 「スキャタズ・ピクチャーゾブザ・スマ〜イルズウィ・レフビーハーイン」  ともすれば聞き取りにくくなりがちな歌詞もなめらかに、ジェニーの形のいい唇からよどみなくさらさらとこぼれ出てくる。ほんの先程まで気弱に見えていた少女が、声を震わせることなくこれほどまで見事に歌えるものなのか。 「キャニビー・ダリワゾール・ソー・シンポーデイズ・・・」  ピアノからフォルテへ、フォルテシモへと移行してもジェニーの息は途切れそうな懸念を感じさせない。 「メェェェムリ〜ズ、メイ、ビ、ビューリフォー、エン・ディエット」  微かなビブラートが必要なところも、スタッカート気味に歌わないと歌詞が伝わりにくいところも、少女はむしろ調子が上がってきたかのように自信を持って歌ってのける。 「ウィーウィル・リメーエンバー、ウェネバー・ウィ・リメーエンバー」  聞き惚れていた者の気持ちをはっと呼び覚ますような、力強いフォルテシモがラストスパートをはっきりと感じさせる。驚くほどクリアーに、ジェニーの声は大量に恭介の中へ流れ込んでくる。胸が高鳴るほど心地よい声だ。 「ザ・ウェー・ウィワー、ザ・ウェー・ウィワー・・・mmm」  そして静かなデクレッシェンドでフィニッシュを向かえたとき、恭介は言い様のない寂しさを覚えた。  もう少し聞きたかったな・・・  ジェニー自身を含む全員が押し黙った数秒間、恭介はジェニーの緊張したままの眉を見つめ、そして下唇を噛んだままの緑を見つめた。早川宏史はと見れば、こちらは変わらず無表情だ。  沈黙を破ったのは緑だった。ただし最初は言葉を発することなく、テーブルに放り出されていたシナリオと五線譜を無言で手に取り、ぱらぱらと眺めた。 「そちらのお嬢さんには、日本の学校にも通って貰った方がいいわね。こっちの環境に出来るだけ慣れないといけないし。来週からセリフの発声とか、演技とか、バレエの基礎なんかのレッスンも必要でしょう。舞台の方は、スポンサーと会場なら心当たりはあるわ。配役はあなたと相談して決めて、場合によってはオーディションやって、スタッフはコネを使って集めて、総合的な稽古は三ヶ月は先になるだろうから・・・」  独り言ともみんなに話しかけているとも判断の付けかねるはきはきとした声で、緑は手元の紙の束に向かってしゃべったあと、穏やかな表情を宏史とジェニーに向けた。 「ゆっくりスケジュールを取って、一年後。来年夏の封切りってことでどう?」  恭介は頷く宏史と、初めて微笑んだジェニーの顔を見て、拍手したい衝動に駆られた。           第二章 探偵登場 「では、日本へようこそジェニー。来年の舞台の成功と、若い才能の輝く未来を祈ってカンパーイ!」  陽気な緑の声に苦笑しながら、四人はグラスをカチカチと合わせた。 「素晴らしい歌声だった。感動したよ! 本番の舞台絶対行くから、がんばってよね。」  恭介は素直に少女を賛美した。興味深げに、青い大きな瞳が恭介を見つめる。 「あなたは、緑さんの知り合い?」 「ん?仕事のトラブルで、緑さんに助けてもらった事があって、親しくしてもらってるんだよ。君は宏史さんとは、以前からの知り合い?」  微かにジェニーの表情に警戒の色が浮かんだ。なぜそんな事を知っているのかと。  図星だったか・・・ 「君は人と話すとき、少し緊張して声が高くなる。日本という外国に来たせいかとも思ったけど、多分ずっと人見知りをする性格なんじゃないかという気がする。だけど・・・」  緑がくすくす笑って、「ホームズを気取った名探偵さん」の話に聞き入っている。宏史も自分が絡んだ話題なので、いつもより興味を示しているようだ。 「宏史さんと話すときは声が落ち着いている。」  青い目が輝くように見開かれた。 「すごーい。まるで探偵みたい」  その場の一同が思わず笑い出す。 「何?どうしたの?」 「恭介君は探偵なんだよ。本物のね」  怪訝そうなジェニーに、宏史が目を細めて説明した。 「凄腕の名探偵なのね」 「いやいや、それにしても日本語上手だね。もうすぐにでも舞台に立てそうじゃない?」 「父が日本人だから・・・」  ん?  何か気になる空気が漂った。ほんの一瞬だけ。恭介は気取られないようにリラックスした表情のまま、テーブルについている三人の様子を観察した。  何も変わったところは無さそうだ。気のせいだったか? 「でも舞台に立つには、ただ日常会話が出来るだけじゃダメだと思うし、日本の舞台をしっかり勉強してがんばるつもりよ」 「そうだね。ところで、ご両親は君が日本に来る事は、すぐに賛成してくれたの?可愛い娘が急に海外に出る事になって、心配されなかった?」  来た。またさっきのような、よどんだ空気が。なぜだろう? 「父も母も今はいないのよ。父は5年前に失踪して、母は同じ頃事故で死んでしまったの。叔父さんと叔母さんが住む場所は提供してくれてるけど、ほとんど私には干渉しないから、今回もしばらく留守にしますって言っただけ。」  恭介は一瞬開いた口をふさぐ事が出来ず、次には不用意な質問をしてしまった事を後悔した。 「ごめん。俺、その、そんな事情があるとは思わなくて、つい変なことを訊いてしまって・・・」  いいのよと笑う少女の顔が、それまでよりもずっとしっかり大人びて美しく見えた。  この娘の過去に触れてしまったからだったのかな?あのイヤな感じは。  それから数ヶ月が瞬く間に過ぎ、恭介は忙しく仕事をこなしながら、時折ジェニーに会った。 「どうだい?日本には慣れた?」 「この間なんか友達の家に5人で雑魚寝して、朝は牛丼よ」 「あはは。レッスンは順調?」 「歌と日本語はまあまあね。でも演技が難しい。大変よぉ」  屈託なく話す少女は、恭介にもすっかり気を許していた。  以前食事していたときに感じた空気が気になり、恭介はジェニーをデートに誘った。最初は口数の少なかった彼女とも、公園や水族館やショッピング街を一緒に歩くたびに親しくなった。  最初は保護のつもり・・・いや、もっと単純な好奇心からだったはずだが、恭介の中でこの少女のどこかしおらしくピュアな人柄に惹かれていくのを否定できなくなってきた。 「ねえ?恭介はどうして私に親切にしてくれるの?」 「好きだからかな」  青い目をしばたかせて、少女は顔を赤らめた。 「もう、ジョークを言うとこじゃないでしょ」 「じゃ、キスした方がいいかな?」  ジェニーは長いまつげを上下に揺らして、そしてゆっくりと目を閉じた。唇に微かな緊張が感じられた。  口づけた唇は硬くこわばっていたが、すぐにやわらかく吸い返してきた。鼻腔をくすぐる甘い香りに、恭介は胸を締め付けられるような気がして、少女の体を力強く抱きしめた。 「あ・・・」  ジェニーの喘ぐような声が、官能的に耳に滑り込んできた。やがて目くるめく悦びに夢中になる二人は、自分たちをとてつもない運命が絡め取っていくのを知らずにいた。  一枚のファックスがその前兆として、早川緑の事務所に届いたのだった。           第三章 キャスティング 「ふう、何とかオーディションも終わって、配役・スタッフともに決まったわね」  緑は目の下の隈をゴシゴシこすりながら、シャーペンでコンコンと事務机の上のリストを叩いた。 「まったく君の手際は見事だ。おかげで仕事のし易そうな人材が集まった」  今日のオーディションの緊張をコーヒー一杯でほぐしながら、ため息混じりに宏史は妻をねぎらった。  緑は照れ隠しのようなドヤ顔を浮かべた後、手元のリストをもう一度睨んだ。  スポンサーに野本グループ。野本財閥会長の野本拓也は緑の叔父だ。野本グループが100%出資する東京オペラ劇場がもうすぐ完成する。そのこけら落しイベントとして、今度の宏史の新作オペラを採用してもらえた。会場の運営は東京オペラ劇場文化財団に任せられることになっていて、今回の演目の裏方スタッフもそっちのツテでやってもらうことになった人間が多い。照明、音響、大道具、小道具、衣装、メーク、ヘアメーク、効果音・・・何とオーケストラも財団にコネのある大学の先生と弟子たちだ。 「オケの指揮者があなたを素人となめて掛かってて、これから苦労が絶えそうにないもの。あれを断れなかったのは、私の大失態だわ。せめて役者はいい人たちにやってもらわないとね」  宏史は苦笑した。新田新(にったあらた)か。あれは確かにプライドが高くて頭の固そうな男だ。俺の楽譜を見るなり、曲調をガラッと書き換えようとしたときはずいぶんやり合ったな。自分が素人なのは認め、曲も詞もその道の人に監修し直してもらうことで、何とか折り合いをつけたが・・・ 「結局曲は新田先生の門下生だから、まだもめそうね。歌詞の方はどうするの?」 「以前から気になってた詩人さんに会ってみたいから、オファーを頼めないかな?」 「あの人?!桐村優子さんね?私も会ってみたい!」  宏史と時を同じくして注目されるようになった、新進の詩文作家だ。その詩の繊細さ美しさ・・・何より読むものを切ない気持ちにさせる描写力は、一詩人にしておくのが惜しいと評されるほどだ。なぜか宏史には共感できる内容も多かった。今作を誰かにアドバイスしてもらうなら、ぜひ彼女に頼みたい。会って話だけでも聞いてくれるといいが。 「で、どう?あの役者さんたち」 「ん?ああ、そうだな・・・」  宏史は役者たちの顔を思い浮かべた。  アルカード・・・主役の城主だが、これにはベテラン俳優の加藤かおる。アルカードはメインで歌う役の一人だから、声楽家でもある彼が適任だ。これはオーディションせずにオファーを取った。一緒に仕事するのは初めてだが、若い俺の仕事を快く引き受けてくれたし、申し分ないだろう。  マリアンナ・・・ヒロインのプリマバレリーナは、ジェニーにやってもらう。これが今回の公演の肝だし、これだけは譲れない。バレリーナという設定だが、シナリオには踊るシーンは無い。バレエのレッスンは受けさせているが、経験豊富なダンサーのようには踊れなくて構わない。ジェニーでなくては、この作品は成り立たないんだ。がんばってもらわないと。  悪魔・・・オーディションで歌も踊りも力強くて怪しい魅力を持っていた、的成光(まとなりひかる)という役者を起用する。経験豊富な男だ。よくオーディションを受けてくれた。観客にきちんと伝わるか難しい役どころだが、演出家の自分としても腕の見せ所になるだろう。  ジノ・・・小野小市か。若いのに演技力があって老け役もこなせそうだ。だがどうもオーディション中、そこいらじゅうの女に声をかけていたな。手が早そうだ。プロデューサーの緑にはさすがに手を出そうとしなかったようだが、ジェニーを泣かせて舞台に立てなくされては困るな。  アンサンブルの男女8名も、歌・踊り・演技、充分満足できる人材が揃った。 「いい感じだと思うよ。よくあれだけの役者が集まってくれた」 「みんなこれで一旗上げたいのよ。大きなイベントになるからね・・・だから、ああいうわけわかんないお便りも来るわけね」  ああ、あれか・・・一週間前に届いたファックス。公演の広告を雑誌や劇場のポスターに出した途端に、あんなものが届くとは。 「どうする?本気で警察に相談する?」  こちらが本気で取り合うかどうかの問題だろうな、それは。あれには、こう書かれていた・・・ 『公演初日に招かれたVIP客を抹殺する』  これだけの規模の公演なのだし、劇場の初舞台だし、野本グループの顔つなぎという意味でも、貴賓を招く必要はあるだろう。それを見越してのテロ予告に見える。 「まだ様子を見よう。また送られてくるようなら、まずは恭介くんあたりに相談してみるのもいいし」  その夜、2通目のファックスが送られてきた。 『私は本気だ シン黒井』  闇の中で、悲劇の配役が揃ったと、誰かが微笑んでいた。           第四章 リハーサル 「はい、じゃ15分休憩」  スタッフの声で、ジェニーはフロアの隅に行って座り込んだ。思わず深い溜息をつく。ここ数日うまく演じたり歌ったり出来ない。公演の初日まで1ヶ月を切り、リハも本格的になったというのに・・・ 「どうした?心ここにあらずという感じだぞ?」  さっきの宏史の一言は応えた。そうなのだ。セリフが頭に入ってないわけでもないし、すべてのシーンの自分のやるべきことは暗記しているし、セリフが抜けてもプロンプターがいる。どんな風に演じるべきか?とか、素人のジェニーには考え過ぎるくらいの悩む時期が続いたが、それも落ち着いてきた。決して芝居は、他の役者さんたちは褒めてはくれないが、歌だけは一目置かれている。レッスンしてくれた音大の先生も感心していたほどだ。それを拠り所に、何とか自分なりのヒロイン像を築き上げてきた。  それなのにここ数日、演技の稽古に力が入らないのだ。 「このままでは通し稽古が出来ない」  嘆く役者やスタッフたち。  焦りを感じながら、脳裏に浮かぶ二つのこと。  なぜ父さんがあんなことを?  早川演劇興行事務所に数度送られてくる、テロ予告のファックス。その差出人として「シン黒井」と書かれていた。それはジェニーの父の名だ。  シン・黒井。日本生まれで本名は黒井慎。若い頃に渡米し、M工科大学を卒業後米国企業に就職して、国籍と永住権を取得。米国人女性と結婚してジェニーという一女をもうけ、M州知事選挙への出馬を表明。しかしそのタカ派としても過激な発言の数々が問題になり、政治家になることを断念。  現政府への批判活動を行う彼が、同時多発的に行われた大量虐殺テロに関与したとされ、国際指名手配犯となる。以後、ジェニーは母とともに叔父夫婦を頼ってニューヨークに移り住んだ。  その後日、父が来た。旅行客として変装し、自分たちの家を密かに訪れたのだ。日本人の「本物の」旅行客である、宏史を連れて。  宏史は大学を出て結婚したばかりの、日本の劇作家だと名乗った。飲んでいるときに父を見て「日本人?金が無いんだけど、泊まれる場所を探してます」と声を掛けたらしい。母は最初訝しそうだったが、ヨーロッパを旅してきたという宏史の話は面白く、その人柄に安心して部屋を提供し、働き口も世話した。ジェニーも宏史の話を楽しみに聞いたし、宏史はジェニーの歌を聴くのが好きだった。  ある日父が、その宏史と言い争っていた。 「裏切ったのか!」 「お前のためだ!それに俺は、ジェニーをテロリストの娘のままでいさせたくない!ジェニーを愛してるんだ!」 「ジェニーはまだ13だぞ!お前ワイフがいるんだろう?!」  争っているとき、外にポリスがパトカーで駆けつける気配がした。父は隠し持っていた銃と火炎瓶を使おうとした。 「やめろよ、ジェニーの前で!」  もみ合っている内に、火炎瓶が床に落ちて、割れた。たちまち火は家中に燃え広がった。  宏史は呆然と父を見ていた。父は顔を抑えてのた打ち回った。宏史は火炎瓶の一つで、父の顔を殴りつけたのだった。  母は先に逃げ出していて、後で聞いた話ではパトカーに追われて車のハンドルを切りそこね、事故死したそうだ。  父がいつ消えたのかは、よく思い出せない。  気がつくと宏史が叔父の家でジェニーのそばについていてくれて、泣きじゃくるジェニーを抱きしめた・・・ 「どうした?ジェニー?浮かない顔だね」  顔を上げると、すっかりボーイフレンドとして親しくなった恭介の顔があった。 「来てたの?!探偵の仕事、今日も暇なんだ?」 「ペット探しの仕事、午前中で片付けちゃったんだよ。報酬も振り込んでもらうことにしたし、今夜どう?」  恭介の屈託の無い笑顔を見ると、肩の力が抜けて安堵感を覚える。宏史の奥さんのところへ連れてこられ緊張の毎日だったが、今は彼のおかげで何とかやれているという気がする。 「誘ってくれるのは嬉しいけど、今はリハがたいへんな時期だから・・・」 「そうみたいだね・・・でも宏史さんはそんなに深刻な顔してないな」 「・・・そうね」  実はジェニーが気にしていることの二つ目は、宏史の事だった。  なぜ台本にあんなことを?  このオペラ「残照の孤城」の台本に目を通したとき、明らかに違和感を覚える一行に目が留まった。 『マリアンナ、命を生み出す神になる。』  神になる?どういう演技をしろという意味なのか?他の役者に訊いても納得のいく答えは見つからない。宏史にももちろん訊いてみたが「自分で考えなさい」と、なぜか優しく突き放された。  通し稽古が近づくに連れ、その一行をどう扱えばいいのかという答えの見えない重圧がのしかかってきた。  宏史はいったい、何を自分にやらせたいのだろう?  じっと見つめると、早川宏史が愛想のいい顔で微笑んだ。 「じゃあ、さっきのところからリハ、もう一度やってみようか!」  ジェニーが短く溜息を漏らすと、目ざとく恭介が微笑んだ。           第五章 潜む罠  初日の開場は穏やかな天候の昼下がりだった。  1000枚のチケットはほぼ完売し、各界の招待者は200名を超える。ロビーには花が所狭しと並べられ、劇場オーナーの野本グループ関係者と多くのVIPが歓談していた。  芝居が始まってしまえば出番のない、衣装デザインを担当した郷田絢爛も今日は招待客席が用意されている。衣装スタッフの一色壮太が服飾デザイナーの彼を崇拝していて、野本緑よりも熱烈なオファーをしたとか。そのこともマスメディアの注目を浴びていたな。  そんな人ごみの周囲に制服の警備員がずらりと立っており、私服警官が多数配置されていた。  テロ予告の送信者をとらえることができないまま、初日の公演が強硬開催されることになったからだ。  警察・警備と連係する恭介も緊張感を覚え、行きかう人々をじっと眺めた。 「今のところ異常なし」  さりげなく近づいてきた現場指揮の堂野警部が小声で言う。その声が捜査本部の無線を通じて、イヤーレシーバに入ってくる。ICPOに派遣されていた彼とは、イギリスのテロ事件の時に顔見知りになった。恭介が野本緑を通して、警察関係者に起用を頼み込んだ心強い味方だ。  頷いてピンマイクに向かって「了解」とつぶやく。イヤーレシーバの感度は良好だ。これのおかげで警部はじめ捜査員警備員とはいつでもやり取りできる。  銃の携帯は許可してもらえなかったけどな、と恭介は苦笑した。それでも現場にいて警備・捜査に協力することを許可されたのは、ロンドンでのテロリストとの大立ち回りの実績を堂野警部が評価したからだ。  ターゲットは誰か?VIPならたくさんいる。  犯人は本当にシン黒井というテロリストなのか?奴は誰を狙う?  場内係が間もなく開演だから座席に戻るようにと、ロビーの客に呼びかけていた。 「始まるか・・・」 「本日は野本グループ提供、東京オペラ劇場こけら落とし公演へおいでいただき、誠にありがとうございます。オペラ『残照の孤城』、間もなく開演となります」  場内にアナウンスが流れ、ブザーとともに照明が落ち、ついに舞台の幕が上がった。  犯行予告は公演初日に招かれたVIP客の抹殺。  ターゲットは誰か?犯人の目的は何か?  だが宏史の胸中はそのことよりも、いよいよ切って落とされる舞台の幕に支配されていた。  始まる・・・ついに。  すべてを失った自分が伝えたいものを込めた、オペラが。 「失礼、遅れてきてしまったもので、隣の席へお通しいただけますか」  声をかけられ、羽白雅子は通路際の席に座る息子を抱き起して、投げ出されていた足を邪魔にならないように自分の方に寄せた。 「どうぞ、狭いのでお気をつけて」  ありがとうございますと礼を言って、スーツ姿の女性は息子と自分の前を通って隣席へ着く。開演に間に合ってホッとしたというようにため息をついている。 「あの、ひょっとして桐村優子さんじゃありませんか?」  その女性に見覚えがあった。詩人であり、今日上演されるオペラの歌詞を監修した作家だ。そのはかなげで優しい作風が、かなり読者に好評だ。作品に携わったのに、2階の貴賓席に招かれていないのだろうか? 「はい。桐村です。今日が楽しみで、自分で買ったチケットで見たいと思ったんです。それに招待客じゃなくて、普通の観客の目線で見たいという気がして」  うふふと微笑む表情もはかなげで、作風と通じている。どこか不思議な人だ。 「お連れさんは、どこかお悪いのですか?」  息子の良平は目をくるっと優子の方に向け、また顔を向けた正面になおった。ほとんど顔も体も動かさない。 「大きな病気をして、一命を取り留めたんですけど、本人に生きる意志というのですか?元気に回復しようという気持ちがないようだとお医者様が」  それで通路に車いすがあり、母親の雅子が付き添って観覧に来ているわけか。 「どういうわけか、このオペラは見たいと興味を示して。スタッフに優子さんの名前があるからかもしれません。私も息子も、優子さんの作品の大ファンなんですよ」  そうですかと優子は会釈して、目をうつろに舞台に向けた良平を見た。どこか自分と同じ影を持っている気がする青年だ。思春期の残照から逃れきれていないような。何か喪失感を持って大人になったことに、戸惑っているような。  開演のブザーが鳴り。優子も舞台の方に向き直った。  恭介は照明の落ちた場内で客席の後ろに立ち、今まさに幕の上がらんとしている舞台を見つめた。  開演してしまえば、脚本・演出の早川宏史のすべきことは何もない。彼は2階席中央の照明・音声(効果音)ブースにいて、舞台袖のスタッフや、舞台中央前部のプロンプターボックスや、舞台手前のオーケストラビットへの音声通信での指示出しのタイミングを図っているはずだ。  オーケストラか・・・  歌劇のすべては指揮者の手にゆだねられていると言っていい。舞台歌手(役者)のセリフはプロンプター本野徹がタイミングを示し、台本を確認しているが、オーケストラを統制する新田新の指揮棒により、早川宏史の作った歌曲の進行のタイミングが決まり、それに合わせて舞台のセリフ・演技は繰り出される。指揮者とプロンプターの息を合わせるため、けいこ中は新田と本野と宏史の三者で激しい議論が繰り広げられた。新田は宏史の曲を素人の拙作と悪しざまに罵ってもいた。宏史は根気よく新田を説得していた。新田は形の上では演出家の宏史に従っているが、この作品が成功することを快く思わず、妨害を試みたりしないだろうか?例えばテロ騒ぎを起こして・・・まさか、今回のテロ予告を出したのは、オーケストラ指揮者の新田新では?  恭介の脳裏をよぎる疑い。果たしてその信憑性は?  新田は犯人か?それは違うのか?  目の前に選択肢が突きつけられた。Yesか?Noか?  恭介は自分がYesを選択するのを想像した。そう考えた自分は、今すぐオーケストラビットへ向かう。そして演奏中の新田を捕らえ、真相を言え!と詰め寄る。  舞台は中断され、スタッフが恭介にどういうことかと詰め寄り、大混乱が起こって・・・その騒動の人影からぬっと、ナイフが突き出されて恭介の胸を貫く!  胸を鮮血で染める恭介が倒れ、黒い人影が嘲笑いながら何度も何度もナイフを自分の胸に突き立てる! 「!」 「どうした?探偵?」  刑事の一人が恭介の肩を掴み、脂汗を流す自分の顔を覗き込む。 「いや、考え事を」 「警備に集中してくれよ」  恭介がうなずくと、刑事は持ち場に戻って行った。  いかんいかん、新田はオーケストラビットから離れることは、上演中はできない。そんな彼が今度の犯行におよぶと考えるのは不自然じゃないか?この選択肢はNoだ。しっかりしろ、俺。  こういう罠が、上演中にたくさん潜んでいるはずだ。俺はそれをすべてかわして、真相という答えに辿り着かなければならない。タイムリミットは終演までと考えていいだろう。必ず、テロリストを捕まえ、ジェニーの舞台を成功させる。  ジェニーは舞台袖で出番を待ちなら、ゆっくりと上がっていく幕を見つめた。場内の照明は既に落ちている。舞台のすぐ前はオーケストラビットであり、演奏者の背中が舞台の明かりで少し見えているが、指揮者もその向こうの客席もよく見えない。  そして舞台中央に悪魔が現れた!           第六章 迫る魔の手  月だけの背景。悪魔が舞台中央にうずくまった姿勢から、踊りつつ歌い始める。  台本にはそう書いてあるだけだが、うずくまった黒ずくめに怖い仮面の歌手、的成光はジッと動かない。  そのまま時間が止まったように静かな音楽が流れ、続いて荘厳なオーケストラが響きわたる。  これは新田新が、宏史の曲にオーケストラを活かす前奏を付け足すと主張した結果だが、観客は何が始まるのかと固唾を呑んでいるように見える。しかし効果ありかといえば、たくさんの目が的成の指揮棒に集まってすぐ、指揮者の悦に入っている表情に気付いて、興をそがれたかのように舞台へ目を移すのを見ると、そうとばかりも言えない。やれやれと恭介は、そっと溜息する。千秋楽まで、宏史ともめないといいが。とりあえずあの指揮者は、殺人予告とは別の世界にいるようだ。  二階席の後方に立った恭介は、舞台を見下ろした。  うずくまった悪魔の頭上にスポットライトにフードを付けて三日月に見せた光が当たっている。照明の妙技だな・・・照明か。  照明のエンジニアは白井来人。犯行予告状の記名シン黒井と似た名前だ。まさか何か関連が?  だが彼もまた、上演中は照明ブースを離れることができない。やはりテロ行為の実行は無理だろう。  向こうの効果音ブースにいる音声エンジニアの、恩田素一についても容疑者リストから外していいと思う。それならプロンプターの本野徹もそうか。  オペラの上演中に自由に動け、2階席へ違和感なく立ち入れる者が容疑者だろう。観客ならばトイレに立つなどの動きをすれば目立つ。やはり忙しく立ち回るスタッフの中に紛れ込んでいるのか?  恭介は考え、潜んでいるかもしれない犯人を捜す。警備は危険な行動をする者がいないか見張り、刑事は怪しい動きを察知したら連係して対処する。そういう分担だ。考えろ。犯人が潜むとしたら、どこにいる? 悪魔の歌1   我は時の狭間に潜みて   人の心の隙間伺う   哀しみに浸る者の情念   我に得も言われぬ快楽を   与えたもう  的成光の歌声?  ジェニーら数名の出演者が耳をそばだてる。何かいつも稽古で聞いていた声と違うような。前日リハーサルとは別人の声のような・・・  客席で恭介もまた、耳を疑って舞台へ振り返った。聞き覚えのある声を聞いた気がしたのだ。 それもいまわしい、イギリスのテロ騒ぎの最中に聞いた声のような。  まさか、あれは悪魔の扮装をした役者、的成光の声じゃないか。  恭介は記憶のテロリスト、ティム・キャンベルの声を思い出そうとした。 「日本人か?シ・ニ・ナ・サ・イ」  歌うような調子で日本語を話したティム・キャンベルに、的成光のたくましい体格は酷似している。しかも悪魔の役どころは歌以外にセリフはなく、日本語が流暢でなくても、あるいは違和感がないかもしれない。おまけに仮面で素顔がわからない。  なぜそのことを気にするかというと、シン黒井と同じく、ティム・キャンベルもまた国際指名手配中のまま、足取りがつかめないでいるからだ。しかも二人が共同で、犯行におよんだケースも過去にはある。   月明かり煌々たる夜は   人の心に迷い生まれて   耳元で我が囁くだけで   世にも悲しむべき惨劇を   呼び覚ませり  だが悪魔に扮した、暗がりの舞台でスポットライトに浮かぶ唯一の歌手は、おどろおどろしくオープニング曲を歌い上げる。   ささ今宵も悲劇の幕よ   切って落とされるがいい   ささ今宵も悲劇の幕よ   切って落とされるがいい  暗転で照明が落ちる寸前、悪魔のマントがバサッと翻り、観客はおずおずと拍手を送った。  悲劇の幕が切って落とされる。それは舞台上にだけではく、劇場内に恐怖を呼び覚ますのではなかろうか。  あれが自分の知っているテロリストだとして、今すぐに捕まえに行くべきか?  目の前に選択肢が突きつけられた。Yesか?Noか?  恭介は自分がYesを選択するのを想像した。そう考えた自分は、今すぐ舞台袖へ向かう。そして悪魔に詰め寄り、何をしている?お前の目的を言え!と詰め寄る。  舞台は中断され、スタッフが恭介にどういうことかと詰め寄り、大混乱が起こって・・・その騒動の人影からぬっと、ナイフが突き出されて恭介の胸を貫く!  胸を鮮血で染める恭介が倒れ、黒い人影が嘲笑いながら何度も何度もナイフを自分の胸に突き立てる! 「!」  おっといけない。また選択肢を誤りそうだ。  行動を起こす前に、確証を掴みたい。探せ証拠を、その手がかりを探すんだ。           第七章 孤城  大道具の生田一太が中心になって、暗がりを舞台に貼った夜行テープを頼りに背景を出し、設置する。  ただの絵ではない、うっそうとした森のオブジェ、その向こうにそびえる中世ヨーロッパの城の縮小模型。生田の自慢のセットだ。  配置が確認でき、さっと舞台袖に引き上げる。次の道具の出し入れのタイミングを確認しなければ。生田はわくわくと胸を躍らせた。新しい劇場でやれるのは気分がいい。このオペラは城がテーマになっているが、この劇場も大した建物だ。あちこち歩き回ってみたいと思った。  そう、あちこち歩き回れるスタッフがいるはずだ。誰と誰だ?  恭介は脳裏のスタッフリストを検索した。舞台はどうなってる?悪魔がはけて、アンサンブルからの説明の場面か。  夕暮れの中、森の向こうに古城が影絵のように浮かび上がっている小道。村人の恰好をした男女八名が、舞台下手より登場。 村人1「あの城だよ。古い小さなお城だが、今の城主様は少々変わり者でね。」 村人2「変わり者?」 村人1「他人をなかなか信用なさらないんだ。」 村人3「ああ、聞いたよ。お家の帳簿は三人の召使いに試し算させて、ご自分でも検算なさるそうだね。」 村人4「そうそう、お城に召し抱えられているジノっていうケチなオヤジがさ、小遣いをせしめることも出来やしないってぼやいてたよ。」 村人5「それでご結婚もまだ、されないんだね?」 村人1「ところがさ、先日とうとう花嫁を見つけてきたそうだよ。」 村人6「え? どちらかの領主様の姫君かい?」 村人1「いや、姫君は姫君でもね、舞姫だそうだ。」 村人6「舞姫? ほう・・・」  村人は8人。アンサンブルは村人など、大勢で話したり歌ったり踊ったりという役どころをいくつもやる。ソプラノ、アルト、バス、テノールが二人ずつだ。 アンサンブルの歌1   深い森にあります 小さな古城   歴史はあれども 栄華なし   先代早くに亡くなって   病は奥方のせいとか   奥方様は奔放で   男に貢いじゃバカ騒ぎ   ついにはご子息を残して   旅芸人と今いずこ  バレエを基調とした優雅な踊りを、村人姿で華麗に見せて歌うアンサンブル。皆実力のあるオペラ歌手だ。 村人7「それじゃ、母上と同じ失敗を繰り返すようじゃないか。」 村人8「城主様はたいそう母上のなさりようをお恨みで、そのせいで人嫌いになったのではなかったのか。」 村人1「ああ、その通りなんだが。よっぽど、その舞姫が気に入ったと見えるね。」 村人2「どんな人なんだい、その舞姫は。」  来た、舞姫の話題!  ジェニーは自分の役どころがセリフに出て、胸をとくんと踊らせた。私は舞姫になって、そして歌うのだ。どこか不思議なものだが、それがオペラだ。  ジェニーは舞台袖からじっと、アンサンブルの演技を見つめた。モニターよりも、生の舞台上を観たい。  そしてアンサンブルは幾何学的に舞台上を移動し、舞いながら歌いだした。 アンサンブルの歌2   街の劇場で今人気の   隣国からの舞踊団   中でも一際目を引くは   うら若きプリマのマリアンナ  これで家族もいない孤独な城主と、うら若きプリマドンナ、二人の主人公がアンサンブルによって紹介された。  物語の骨組みは悪魔に翻弄される、城主と舞姫の運命劇だ。  間もなく自分はその舞台に踏み出すのだ。そして観客の視線を集めるのだ。ニューヨークのストリートで歌った、あの日々よりも。  とそのときジェニーは、二階席の方で何かざわめきのような人の動く気配を感じた。  そっとうかがうが何が起きているのかいないのか、よくわからない。  どうしたのかしら?・・・!  ジェニーはあり得ない方向から視線を感じて、顔を上げた。  天井の方から?  そこには照明を提げたキャットウォークが、縦横に張り巡らされている。暗がりの中、そこに誰かがいるような気がした。  まさか・・・!  今度は背後から視線を感じたような気がして振り返る。  黒い影が立ち去った気がした。  悪魔?・・・まさか。  舞台を向き直ると、アンサンブルの向こうに古城が、本物さながらにそびえ立って見えた。照明が赤く背景を染め、まるで夕暮れの残照のように思えた。           第八章 うごめく悪意 「おい、どうした!」 「あ、堂野警部。警備員が一人やられました」  ロビーを巡回していた警備員から「救護求む」の通信が入ったのをきっかけに、ロビーに数名が集まった。その警備員が背中から血を流して、うつぶせに倒れて呻いている。背後からいきなり襲撃され、犯人の顔も見ていないらしい。 「救護班を!」  指示を出しながら周りを観察した堂野は、グレーのカーペットが敷き詰められた床に点々と続く赤い痕跡に気が付いた。 「血痕が点々と・・・、警備員を刺した凶器からしたたったんだな?階段の方へ続いているということは、二階席かっ」  ついに凶行に及んだ犯人は、二階の貴賓席へ向かったのか。  堂野と数名の刑事が階段を駆け上がった。  二階のロビーには人影は見当たらない。通りがかった警備員に訊いても、誰も見ていないと言う。 「じゃあ、やはりこっちへ?」  堂野は唇をかみしめて、貴賓席へ通じる扉に手をかけた。テロリストはついに姿を現したのか?  恭介が振り返ると、堂野警部と数名の刑事がドアを開けて踏み込んできた。  無線で事情は聞こえている。一階ロビーで警備員が刺傷された。血痕が二階へ続いているのが発見されたと。にわかに二階席の警備にも緊張が走った。 「異常は?」  堂野の声に、ここが持ち場の刑事は首を横に振る。誰も怪しい動きはしていない。  そうだ誰も動いていない。誰も・・・?  恭介の目に、スタスタと立ち去る後ろ姿が映った。  早川宏史だった。  演出家が上演中に劇場内を移動することはあり得ることだ。音声や照明が気になればそのブースに寄り添い、ステージが気になればそっちへ行くだろう。  だが今このタイミングで? 「警部!」  堂野にその疑問をささやくと、刑事一人に声がかかり、早川宏史の後を追うことになった。  しかし数分後早川宏史は、刑事を知らぬまま後続に従えて戻ってきた。 「どうかしたんですか?」  恭介は歩み寄って宏史に尋ねてみた。  けげんそうな顔をした演出家は、自分の行動のことだと言われると納得したように、舞台を別の角度から見たかっただけだと言った。 「探偵、その割にあの人、一度キャットウォークへ行く、スタッフ以外立ち入り禁止の扉の向こうに行ったよ。上手のな」  後をつけた刑事がそう教えてくれたが、それが事件とかかわりを持つのか恭介にはわからなかった。  そして他にニ階席に動きはない。怪しいところも無い。犯人はどこへ行ったのか?  堂野警部たちの話では、一回に警備員が倒れていた。そして血痕が二階へ通じる階段に続いていた。しかし血痕は途中で消えている。犯人は凶器から滴る血を拭ったのだろう。そしてそのまま二階へ・・・上がらなかったとしたら!? 「警部、犯人は途中で引き返したのでは?」 「するとホシは逆方向、今度は一階席へ?!どうしてだ?一階には一般来場客しかいないじゃないか」  犯行予告の内容はVIP客の殺害だ。VIPとは政界財界の重要人物を指すはずだ。二百人の招待客はここ、二階席にいる。 「いますよ、一人だけ」 「?」 「野本財閥のお嬢様・・・」  恭介は友人の顔を思い浮かべた。胃がぎゅっと締まる。一階「席」ではなく、彼女は初日の出演者・スタッフをフォローするため、館内のあちこちを動き回っているはずだ。 「早川緑かっ!おい、プロデューサーの警護を増強しろ!」  ひそひそと話し、足音を忍ばせるようにしながら、刑事たちが動きだした。  静かなオペラ上演中の客席だ。犯人にこちらの動きを、必要以上に悟られてはならない。  アンサンブルが舞台奥の扉からはける。背景の森と城を、大道具が左右に下げる。効果音、街のざわめきを大きめに流す。  舞台上手から、アルカードがジノを伴って現れる。  ジェニーは唇をかみしめた。主人公が登場し、物語は本格的に始まる。 ジノ「アルカード様。それではあたくしはここでお待ちしておりますので、ゆっくりご覧になってきて下さいまし」 アルカード「ふむ。社交場で話題になっているからな。話の種にするために仕方なく見に来ただけだ。さっさと見て帰ることにするさ」  アルカードが舞台下手の、劇場の入り口のセットへ消える。  劇場の中に劇場があるというのも面白いものだが、大道具が用意したのは劇場の入り口の部分だけ。そこをくぐることで、その人物が劇場へ入ったと観客に示す演出だ。  もちろん入り口の枠をくぐったアルカード役の加藤かおるは、ベテランならではの繊細な演技で劇場内の空気を驚き楽しむ田舎城主の姿を見せる。  そして劇場の外にいるジノ役の小野小市が、粘り気を感じさせるくどい表情と口調で嫌われ役を演じる。 ジノ「ふん。偏屈な城主様が珍しく踊りを見に行くと言うから、こっちも外の空気が吸いたくてたまらずにお供を申し出てみれば、いつもと変わらない息の詰まりそうな仏頂面。ただでさえ美形とはほど遠い、岩みたいな形相だというのに、あれじゃ本人が望んでも嫁の来手がなかろう。だいたいチップとは言わないまでも、こちとらの働きに小遣いの一つも出さねえとは、人間不信と言われちゃいるが、ただのケチじゃねえのか」  長台詞だがよどみない。女癖が悪くて、ジェニーも隙あらば手を出されそうになった。どうにも好きになれない男だが、まだ若いのに老け役をこなす演技力はさすがだ。 アンサンブルの歌2(続き)   そんな城主様も目を見張る   舞台に華麗に咲く花よ   汝の名前はマリアンナ   美しきマドンナ、マリアンナ  まだ舞台に残っていた村人たちが、背景が変わっても途切れを感じさせずに続きを歌う。  舞台の照明が暗くなり、歌い止めたアンサンブルが丸く集まっている、舞台中央奥にスポットライトが当たる。  ということは、村人の会話が始まるわけだ。舞台上とオーケストラの音楽と観客の目が一つになって、同じ動きを追っているのが感じられた。  すごい、これが舞台なんだ!ジェニーは目を輝かせた。 村人3「何だい。やっぱり舞踊なんかって、バカにしてるんじゃないか」 村人1「それは観賞なさる前の話でね、ほらご覧、上演が終わって出てきた途端、すっかり感激されて、ご自分までステップを踏みそうじゃないか」  スポットライトがもう一つ灯り、すっかり待ちくたびれた様子のジノの姿が浮かび上がる。舞台は暗いまま。  大道具、夜になったことを示す月を、天井から吊り下ろす。この月はフットライトの投影ではなく、木の板で作られたものだ。  そこへアルカードが劇場の入り口から出てくる。興奮した様子で、ジノを見るなり駆け寄る。 アルカード「ジノ、世の中にはまだまだ私の知らない、素晴らしい芸術が存在するものなんだな」 ジノ「はい、アルカード様。大層今宵の舞踊がお気に召されたご様子ですね」 アルカード「ああ、ああ、気に入ったとも。舞踊というのは、人の肉体に宿った躍動美を表現するのに、実に最適な手段であるようだ。いや最も美しかったのは、プリマバレリーナの・・・、何と言ったかな」  アルカード、劇場内でもらってきたらしいチラシを広げる。首を大きく振りながら見た後、ジノの方へ喜々として顔を上げる。  加藤かおるの演技がよく映える。ここはベテラン俳優の腕の見せ所だ。けいこ中はよく宏史と演技のことで言い合いをしていたが、言うだけのことはやるということか。 アルカード「そうだ、マリアンナだ。見ろこの似顔絵、大した美人じゃないか。この聡明そうな眼差しが麗しい。この女性の踊りがまあ、見ていると身も心もとろけるほど美しいのだ」 ジノ「左様でございますか。アルカード様がそんなにお喜びになるご様子を拝見するのは久しぶりでございますので、一召使いの身であるあたくしも大変嬉しく思います」 アルカード「うむ。お前は日頃からよく、私に尽くしてくれるからな。それは口に出さぬまでも、痛く感謝しているぞ」 ジノ「勿体ないお言葉でございます」  ジノ、感極まったように片手で両目を覆う。が、観客席の方へ顔を向けて、うんざりしたような顔をする。  観客席がざわざわと笑う。1200人が一つの生き物のように笑っている。またしてもジェニーはぞくりと興奮を覚えた。舞台上の挙動で、この巨大な生き物が反応するのだ。 アルカード「なあ、ジノ。私はまっすぐ城へ戻るには胸が高鳴って落ち着かぬゆえ、しばらく一人で歩いて頭を冷やしてから帰るとしよう」 ジノ「お一人で大丈夫でございますか?」 アルカード「ああ、心配いらないよ。ちょっと散歩したら、すぐに馬車を捕まえて帰ることにするから」  アルカード、そう言いながらジノの手に提げられている、自分の上着を引ったくるように取り上げる。 ジノ「では、お気を付けて」 アルカード「うむ。気にしないで先に帰っていろ、ジノ」  上着を羽織って片手を振りつつ、舞台下手へすたすたと歩き去るアルカード。ジノはアルカードへ一礼した後、肩を一つすくめて舞台上手へ立ち去る。  一瞬モニターを振り返る。出番を待つ歌手やスタッフが囲むモニター画面には、左右へ鮮やかに別れていく二人の男が映っていた。  舞台が美しいと思えた。  その舞台には、村人たちが遠巻きにひそひそ話をしながら、あるカードたちの様子を見ていたかのように演技している。 村人1「ほらどうだい。普段いかつい顔してばかりおいでだから、たまに楽しいことに出くわすとのめり込んでしまうんだね」 村人4「いや驚いた。すっかりミーハーじゃないか」 村人5「それでいきなりマリアンナ嬢へ、プロポーズでもしに行ったのかい?何ともお手軽な見初め方だね」 村人1「ははは、まあトントン拍子には違いないがね。もう少しロマンチックなエピソードがおありのようだよ。ほれ、お散歩中のアルカード様が、月夜の広場に差し掛かったときのことさ」  ジェニーの胸が高鳴った。いよいよ、自分が登場するシーンだ。  今行くからねステージ。そして満員の観衆よ。  だがその同じ空間のある場所で、彼女に対する悪意がうごめいていた。 「ジェニぃぃぃ・・・、可愛い私の娘よ。今行くからなぁ」  暗がりで男は、ベロリとナイフの刃をなめあげた。           第九章 輝きのひと時 「そう、じゃあ大丈夫ね。後はお願いね」  スタッフと確認して、緑は周囲を見回した。他にも仕事の滞っているスタッフはいないか? 「あら?やけにものものしいわね」  あわただしくスタッフと出演者が行き来する舞台袖に、眼つきを鋭くした警備員や刑事が数名踏み込み、自分やその場にいる者ににらみを利かせている。 「何かあったんですか?」 「何もありませんでしたか?」  逆に訊き返されて、緑は「は?」と硬直し、悲鳴に近いスタッフの呼び声に振り返った。  大道具、劇場入り口を下げ、背景を石畳の広場に代える。舞台中央には、噴水のセット。スポットライト、舞台下手から歩いてくるアルカードをトレース。  大道具!?  彼ら裏方ならどうだ?舞台に表立って登場するわけじゃない。スタッフに紛れ込んで入場した犯人が舞台を離れ、客席へ移動して犯行を起こす・・・  舞台裏のスタッフに犯人がいるのか?それは違うのか?  目の前に選択肢が突きつけられた。Yesか?Noか?  恭介は自分がYesを選択するのを想像した。そう考えた自分は、今すぐ舞台裏へ向かう。そしてお前たちの誰が犯人だ、真相を言え!と詰め寄る。  舞台は中断され、スタッフが恭介にどういうことかと詰め寄り、大混乱が起こって・・・その騒動の人影からぬっと、ナイフが突き出されて恭介の胸を貫く!  胸を鮮血で染める恭介が倒れ、黒い人影が嘲笑いながら何度も何度もナイフを自分の胸に突き立てる! 「!」  我に返った恭介の耳に、無線の声が響いた。  生田一太の多忙ぶりを舞台袖で見ていた刑事が、無線で捜査本部に「大道具はけっこうな忙しさで、この場を離れられるとは思えません」と報告している。それをイヤーレシーバで聴いた恭介は、じゃあそっちも白だろうと思った。危うく早まった行動を取るところだった。  じゃあ小道具も、衣装も、メイクも・・・次々と容疑者リストからスタッフの名前が削られていく。時間は経過する。予告のVIPではなく、警備員とはいえ被害は既に出ている。犯行を未然に防ぐことはできなかった。警備関係者以外の被害者が出る前に、犯人を見つけ出し捕えたい。  その時間はあとどのくらい残っているのか?  恭介にも警察関係者にも焦りがあった。  いっそ舞台を中止すべきなのか?  そんな思いをよそに、舞台では加藤かおるがたぐいまれな歌声を披露するのだ。 アルカードの歌1   月よ君の母は誰(たれ)か きっと鏡のような海   星よ君の母は誰(たれ)か きっと光輝く空   ああ 月よ星よ 胸を焦がす熱き想い生みしは誰(た)れ   ああ 月よ星よ この想いは黒き髪の姫君のせい アルカード「不思議だ。あの人の姿を思い出すだけで、なぜこんなにも歌い出したい気持ちになるのだろう。こんな気持ちは初めてだ。おや、あれは?」  噴水の後ろから舞台右側へ、白いドレス姿のマリアンナが歩み出る。 マリアンナの歌1   月よ君は誰とともに きっと心豊かな海   星よ君は誰とともに きっと瞳涼しき空   ああ 月よ星よ 熱く強く君を抱(いだ)く人は誰か   ああ 月よ星よ 熱く強く私抱く人は誰か  マリアンナ、アルカードを振り返って微笑む。  観客が息をのんだ。小さくない会場の後方からでも、マリアンナを演じるジェニーの美しさが際立って見える。  しかも今聞いた歌声はどうだ!なんという透明感!なんという力強さと繊細さ!  自分たちが目にしたのは、今まで誰も知らない、これから才能を世の中に知らしめるであろう歌姫だ。ジェニー黒井という名前を観客は意識した。 マリアンナ「素敵な歌ですのね」 アルカード「あ、あなたは、舞踊団のプリマバレリーナ」 マリアンナ「マリアンナです」 アルカード「マリアンナさん、このような場所でお会いできるとは、私嬉しくて天にも昇る心地です」 マリアンナ「まあ、お上手ですね。今日の舞台は特にうまく踊れたので、一番気に入っている舞台衣装をこっそりと借り出して、こちらで踊りながら思い出していたのです。そうしたらあなたの素敵な歌声が聞こえてきましたので、思わず合わせて歌ってしまったのです」 アルカード「そちらこそ、お世辞がお上手だ。私はアルカード、この先の森の中の城主です。今日の舞台を拝見して、またあなたにお会いしたいと思っていました。ああ、この世に神はいるものです。運命の巡り合わせと言うべきか」 マリアンナ「まあ、ふふふ。舞台をお気に召して頂けて何よりですわ」 アルカード「マリアンナさん、よろしければ私にもう一度、あなたの舞を見せていただけませんか?」  マリアンナ、にっこりと微笑んでドレスの裾をつまんで礼をする。 「大道具の入れ替えがスムースに行かないからって、何もプロデューサー呼びつけなくても」  溜息をもらしながら、緑はモニターを見た。 「来た!前半の見せ場ね」  主役二人のデュエットは、さすがの新田新もこれにケチはつけなかった。これがあるから、緑もこの公演行けると思ったのだ。  さあ、聴かせてやりなさい。 マリアンナとアルカードの歌1 (マリアンナ独唱)   人と人の巡り会う瀬は 誰に誘われ訪れる   一つ二つ交わす言葉で 何故に君を愛せたの   そんな終わりの無い問い繰り返し   君の腕(かいな)に胸焦がす今宵も  アルカード、感極まったようにマリアンナに歩み寄る。 (アルカード独唱)   月と見れば君の面影 風と聞けば君の声   一人過ごす宵を重ねて 思いは深まるばかり   時の果てまで君抱きしめるまで   尽きることないこの胸の炎は  アルカードが手のひらを差し伸べ、マリアンナ笑顔で手を重ねる。  スポットライト、斜め上方より月光のイメージで照り下ろす。  アルカードとマリアンナ、ゆっくりと踊り出す。 (マリアンナ)   花を両手に素肌に月明かり   舞っていましょう君待って泣くより (アルカード)   瞳閉じれば浮かぶよ蜃気楼   月下(げっか)の朧に舞い踊る姫君 (マリアンナ・アルカード斉唱)   愛し愛され思うは君のこと   ともに舞いましょう月下に君思い   ラララ・・・ 「見事だ」  宏史はうなった。  稽古からこれなら行けると思っていたし、そもそもこの曲を書いた時から聴衆を魅了するに違いないとと思っていた。  実際に沸き起こった拍手は、オペラでありながら「ブラボーっ」という歓声まで上がるほどだ。 「だがこれが・・・」  そうただの序章に過ぎない。すべては自分の描く結末に向かう筋書き通りだ。 マリアンナ「素敵ですわ。歌がお上手ですね」 アルカード「この歌は一目でひかれ合った男女が、互いの故郷で相手を思いながら、狂おしく歌い踊る場面でしたね。あまりにも美しかったので、よく覚えているのです」 マリアンナ「この歌は私の国では有名な作曲家によるものです。本当に美しい調べですね」 アルカード「いえ、私が美しいと言ったのは、あなたです」  マリアンナ、照れたような微笑みでアルカードを見つめる。  少しばかりざわついた客席が静まり返った後も、ジェニーはよどみなくセリフを吐いて役になりきっている。恋の芽生える乙女の、自然なしぐさや表情に見える。  宏史の胸に恋する若者の感じる疼きがあった。  そのことに苦笑して舞台と、モニターのジェニーを交互に見守る。 アルカード「マリアンナさん、よろしかったら明日もまた私と会っていただけませんか?」  マリアンナ、少しもじもじした後答える。 マリアンナ「はい、喜んで」  照明、舞台を暗くし、左手の村人たちのところのみスポットライトを当てる。アルカードとマリアンナ、舞台上手へ退場。  それと同時に、観客が一様にため息を漏らした。舞台が輝いて見えるほどの、美しい歌と音楽の共演の時間が通り過ぎ、もう戻ってこないのだと。それはまるで誰しも胸ときめかせた記憶のある、思春期の終わりのごとく。           第十章 汝は破滅に向かいて 村人6「なるほど、月夜の馴れ初めかい」 村人1「どうだい、ロマンチックだろ。二人ともいい雰囲気になっちまって、たちまち熱々のご関係さ」 村人7「二人はこの後逢瀬を重ねて・・・」 村人8「翌年にはご成婚」 村人2「めでたし、めでたしと」 村人3「まことに結構なお話で」 村人4「では、帰って仕事の続きでも」 村人1「あいや、ちょっと待ちなよ」 村人5「何だい、まだ続きがあるのかい?」 村人1「それがね、幸せは長く続かないものなのか、城主さまとお妃さまの仲むつまじさが、少しずつ怪しくなっていったんだよ」  大道具、石畳の広場・噴水を下げる。背景が古城の居間に変わる。照明、舞台全体を明るくする。村人は舞台下手へ退場する。  上手の入り口からジノが入ってきてこそこそと部屋を見回す。 ジノ「まったくうちの城主様ときたら、ご結婚されたら少しは小うるさいところが無くなるかと思えば、奥様にさえお金を自由に使わせないとは。ああ、先代の城主様の頃が懐かしいや。あのくらいお金にルーズでいてくれたらなあ。おっ、これはまた!」  ジノ、テーブルの上に財布があるのを見付け近寄る。財布を手に取り、中を見る。 ジノ「おお、これは城主様がいつも、決して肌身から離すことのないお財布。あのケチな性格の割には、自分の懐にはたんまりと金貨銀貨を詰め込んでやがる。少しはこのよく働くジノ様に、お小遣いをよこしても良いものを」  照明、舞台を薄暗くする。舞台上より悪魔を吊り下ろす。位置は舞台の下手、背景のやや外側。スポットライトを悪魔に当てる。  そう台本には書いてあるが、早川宏史が完成した劇場を見て演出を変えた。  悪魔が天から降りてくるのは、宗教的に見た場合に不自然だ。だから舞台の「せり」を使って、地下から浮かび上がることにしようと。  だから悪魔は地から湧き出る。うずくまったまま、床下からせり上げられるのだ。その方が、不気味さが増す。 「怖いな」  独り言を洩らした後、恭介はふと思い立った。  舞台の下はせりを収納するスペースがある。いわば地下だ。そこは出演者とスタッフしか出入りしないから、犯行予告に書かれているVIPの警護は必要ない。警備員も警官もいない。恭介もそれでいいと思っていた。  気になることその1:舞台の下は警備が手薄で、もしも関係者以外の人物がいても気付かない可能性がある。 「だけど、悪魔は仮面を被っていて、誰だか分からない。まさか!」  気になることその2:舞台の下まで行くには関係者の中を通って行くことになり、無関係な人間は侵入不可能である。ただし役の上で顔を隠す必要がある悪魔は、常に顔を隠して行動することが可能。  ずっと気になっていた、その歌声の違和感。悪魔が歌いだした。そして恭介の前に選択肢が浮かび上がった。  気になることその3:悪魔の歌声が別人に聞こえる。  悪魔は実は的成光ではなく、他の人物が成りすましているのではないか?その証拠を調べるために、自分はあそこへ行くべきではないか?  Yesか?Noか?  恭介はYesだ!と、足音を忍ばせて駆け出した。 悪魔の歌2   人の心もろく 闇に捉えられて   妬み嫉むあまり おのが身を滅ぼす  照明、ジノおよび部屋のセットにスポットライトを当てる。 ジノ「そうとも、これはあたくしのものだ。安い食い扶持でこき使われる、この善良なジノ様をよく見ている誰かが、これをあたくしに与えてくれたのだ。あっはっは!」  醜い形相で高笑いしたジノ、急に不安げな顔になる。 ジノ「だが待てよ。これを持ち出して、もしもあたくしがやったとばれたら、どんな仕打ちを受けるか・・・ここを追い出されたら、どこへ行けばよいのか。それに役人に引き渡されでもしたら・・・いやいや、あの城主様は札付きのケチ。自分のお金に手を出されたら、激怒して即手打ちにしてしまいかねない。こんなはした金で命は捨てられぬ。うーむ」 悪魔の歌2(続き)   疑いの思いが 底知れぬ深みに   そして悲劇を呼べ 月を赤く染めよ ジノ「そうか!思えばあのマリアンナ。踊り子ごとき卑しい身でありながら、お妃様の座に居座り、あたくしをあごで使いやがる。どうせならあの女に、目にもの見せてやろう」  ジノ、財布を開ける。 ジノ「金はこの通り、しっかりと頂戴して。そしてこの空の財布を・・・」  ジノ、含み笑いをしながら、財布を持って舞台上手の入り口より退場する。  悪魔、黙って見送った後、高笑いする。  そこでまた違和感を覚えた。あの笑い方はやはり、昨日のリハーサルまでの的成光ではない・・・どういうことだ?  共演者やスタッフはいぶかしんだが、芝居は止められない。  加藤かおるはよどみなく舞台へ出た。  そこへ少し慌てた様子でアルカードが、舞台上手の入り口より入場する。テーブルの上を覗き込んだ後、怪訝そうな顔で辺りを見回す。部屋のあちこちを、何か探して回る。  その様子を見守る悪魔。含み笑いするように、体を震わせる。  加藤かおるの額に汗が噴き出す。悪魔をイメージした衣装で、仮面に隠れた顔。それだけでも怖いのに、その中にいる人物が誰なのかわからないのが怖い。  だが、オペラ歌手としての経験が、加藤のプライドとなっている。  演じるんだ。演じ続けるんだ。オペラを止めるな。 アルカード「無い!持って出忘れた私の財布が無い!どういうことだ?」  悪魔、ゆっくりと舞台上手の入り口を見る。  入り口からジノが再登場。 ジノ「アルカード様、どうなさいました?」 アルカード「おお、ジノ。私の財布を見なかったか?ここに、このテーブルの上に置き忘れたまま、出歩いてしまったようなのだ。」 ジノ「はて・・・、あ!そういえば」 アルカード「どうした?」 ジノ「先ほど、奥様の部屋の前を通りかかって、たまたま入り口の戸が開いていて中が見えたのでございますが、床に財布が落ちていたような気がします。それが、奥様の財布ではなく、アルカード様のそれに似ていたような・・・」 アルカード「何?マリアンナの部屋に?私は昨日、あれの部屋を出るときには確かに財布を持っていた。今日はあれを訪ねてはおらぬ。食堂で顔を合わせはしたが、その時には財布は確かに持っていたし、だからこそこの部屋に戻ってテーブルの上に置いた。そう、着替えるときに・・・それなのに、財布がマリアンナの部屋に?ジノ、それは確かか?」 ジノ「いえ、ですからあの財布がアルカード様のに似ているような、そんな気がしただけで・・・きっとあたくしももうろくして見間違えたのでしょう。この事はお忘れください。奥様に何か迷惑をおかけするようなことになっては、あたくしどのようにお詫び申し上げたら良いのか」 アルカード「いやいや、お前が日頃からよく仕えてくれているのは、重々承知しているとも。お前が言うからには、きっとマリアンナの部屋に財布があるのだろう。どうかしているのは私の方かも知れない。持って出たつもりで、あれの部屋へ落としてきてしまったのだろう。どれ、見てこよう」  その演技の最中、恭介は舞台下へ踏み込んだ。館内の通路は頭に入っている。二階客席からここまで、素早く移動できた。  せりを使って地下から登場人物を上げるのは、さっきの一場面だけ。もうせりを使うこともないのでスタッフは誰もいない。ここにスタッフは少しの間入ってきて、そしてもう出て行った。  殺風景なスペースだ。ここに何か証拠になるものは・・・  隅に置いてある荷物から、何かの気配を感じた。というより何か聞こえる。 「う、う、う〜」  人のうめき声だ!  近寄ると、道具を詰めるらしい大きな箱があった。人も余裕で入れそうな箱だ。  蓋を開けてみた。  そこにスポーツタイツ姿の男性が、口にガムテープを貼られ、後ろ手に手首と、足首も縛られてうずくまっていた。  恭介にも見覚えのある顔だった。稽古で何度も見ている。ただかなり憔悴した顔で、印象が違う。ガムテープをはがして、念のため誰だ?と尋ねた。 「的成光。助けてくれ。舞台で歌いたいんだ!」  男は唇をかみしめて涙を流した。  アルカード、部屋から出る。  ジノ、ニヤリと笑みを浮かべてポケットから金を出し、掌の上でもてあそぶ。 ジノ「これで良し。首尾は上々だ。」  ジノ、高らかに笑う。悪魔も追うように笑い声を上げる。  アンサンブル、悪霊の衣装で舞台左手より登場。悪魔の周囲で踊る。  アンサンブルの8名は皆一様に唇をかみしめていた。彼らも悪魔が的成光ではないらしいと気づいている。誰が何の目的で、成り代わって舞台に出てきたのか?噂に聞く、劇場に潜入して騒ぎを起こすと予告した(殺害するという予告文は、出演者には知らされていない)犯人ではないか?  しかしアンサンブルにも、この舞台を成功させたいという思いがある。、ジノ役の小野小市もまた、普段の軽薄さを微塵も感じさせない鬼気迫る演技をしている。  歌うんだ。オペラを止めるな。 ジノ・悪魔・アンサンブルの歌1 (ジノ独唱)   ああ サイは 投げられた (合唱)   もう 時は 戻せない (悪魔独唱)   ついに すべて 崩れ去る (合唱)   嘆き 怒り 血を流せ   心 闇に 呑みこまれ   神は 汝 見放さん (悪魔独唱)   ああ 我が栄華の時   ああ 喰らい尽くす魂  照明、舞台を暗くする。悪魔のスポットライトはそのまま。  ジノ、アンサンブル、舞台下手へ退場する。  悪魔、高笑いしながら舞台下手へ退場する。スポットライト、悪魔を追う。  大道具、アルカードの部屋の背景とテーブルを掃け、マリアンナの部屋の背景にする。入り口は舞台上手から、舞台下手へ移動させる。舞台下手には椅子を置く。  悪魔が掃けてきた。野本緑がその正面に立ちふさがった。  い、いけない。警備についていた刑事たちが色めき立つ。 「あなた、誰?」  しかし眉を寄せた緑は、構わず誰何する。 「的成光じゃないよね?面を取ってくれない?」 「プ、プロデューサー・・・」  刑事たちがそばへ寄ろうとしたとき、悪魔がローブ状の衣装から大ぶりのナイフを取り出した。  そこに人ごみをかき分けて、東恭介がとびかかった。  マリアンナ、舞台上手から登場し、椅子に座る。  照明、マリアンナの部屋にスポットライトを当てる。  マリアンナ、椅子に座って本を読んでいる。  そこへアルカード、舞台下手から慌しく登場する。  騒ぎが起こったのは、もちろんわかっている。だが加藤かおるは心に決めていた。  オペラを止めるな。演じ続けるんだ。 アルカード「マリアンナ、入るぞ」  返事も待たずに入り口をくぐる。 マリアンナ「あら、どうしたんですの?」  本を脇に置き、アルカードを見つめる。  よしいいぞと、加藤かおるは思った。ジェニーにも下手舞台袖で何かあったことは感じているはずだ。だがよどみなく演じている。  オペラを止めるな。演じ続けるんだ。  アルカード、黙って床を見回す。 マリアンナ「何かお探しですか?」 アルカード「おお、探しているとも。正直言って大したものではない。だがもしも見つかってしまったなら、私もお前も大きなものを失うことになるだろう。だから見つからないでくれと、私は願っているのだ。」 マリアンナ「まあ、どういうことなんですか?私も一緒にお探ししましょう。ここに何かを、落としてしまったかも知れないのですね。いったいそれは何でしょうか?」 アルカード「それは・・・おお、あった!」  加藤かおるは下手舞台袖で、悲鳴のようなものが上がったのを聞いた。だが観客に悟らせてはならない。だから声を張り、大きな身振りで床へ手を伸ばした。  それは観客には、アルカードが大きな衝撃を受けたように見えるだろう。  そしてそれを察したジェニーが、稽古の時よりもテンションを高くして応じる。 マリアンナ「何でしょう?それは・・・あなたの財布ですね。一体なぜここに?」 アルカード「まさに私が知りたいのは、そのことだ。一体なぜここに、私の財布があるのだ?」 マリアンナ「いいえ、私には思い当たることがありません。」 アルカード「無いのか?思い当たることが、無いと言うのか?」 マリアンナ「どうしたのですか?あなたの今のおっしゃり様は、まるで私が何か隠し事をしているのではないかと、疑っておられるような」 アルカード「ああ、疑っているのかもしれない。私も今とても混乱しているのだ。なぜなら、この財布にぎっしりと詰まっていたはずの金が、いっさい無くなっているからだ!」  アルカード、財布を客席に向けて高く掲げる。  照明、アルカードとマリアンナにスポットを当てる。  舞台左右よりアンサンブル登場。衣装は黒でアルカードの心の影を演じる。 アンサンブルの歌3   ああ、何と黒い渦よ   我が身呑んで沈め行く   大地崩れ空が落ちて   何に寄って立てば良いか   愛はどこか 君はどこか   いつの間にか 孤独の闇  恭介は屈強な悪魔の腕をねじりあげ、ナイフを奪おうとした。  その途端相手の左肘が顔面に激突した。格闘の技に長けたひじ打ちだった。  バランスを崩したところを床に押し倒され、馬乗りになった悪魔がナイフを振り下ろしてきた。 「けへへ、若造!」 「!」  ナイフは左胸に突き立てられた。衝撃と痛みが恭介を襲い、周りのスタッフが悲鳴を上げるように息をのんだ。それでも甲高い声を上げる者がいないのは、今が舞台の本番中であると誰もが自覚しているからだ。ここにいる者で、この舞台に賭けていないものは一人もいない。  だが恭介はナイフを掴んだ悪魔の右手を両手でひねりあげ、横転して相手の腕を背後にねじりあげた。 「早く、こいつを押さえて!」  周りに助けを求めると、刑事たちが呪縛から解き放れたように寄ってきて、悪魔を掴み拘束した。 「お前は誰だ?」  恭介が胸を押さえながら、片手で悪魔の仮面を取り払った。 「お前は、ティム・キャンベル!やっぱりそうだったのか?!」  ロンドンで会ったテロリストは、不敵な笑みを浮かべて恭介を睨み返した。  あのとき恭介はロンドンへ旅行中だった。探偵業を始めたきっかけ、シャーロック・ホームズ由来の場所を観て回った。  とても楽しかったが、ロイヤル・オペラ・ハウスで観劇中に、数名のテロリストグループが、貴賓客を人質に立てこもる騒動が起きた。  恭介は逃げ出さず、劇場内に潜んで犯行グループの配置や動きを観察し、外の警官へ情報を流した。その時に中継役になってくれたのが、旅行中に知り合った野本緑だった。食事の席で意気投合してメールアドレスの交換をしていたので、自分の状況と警察に伝えてほしい内容をメール送信した。  そのことがマスコミによって報じられ、映画ダイハードよろしく、犯行グループに探し回られる羽目になった。ブルース・ウィルスのようにかっこよくはいかないが、テロリストの一人を拘束し武器を奪って、不本意だが劇場内で銃撃戦をして時間を稼ぎ、入手した情報をリークし続けた。  ティム・キャンベルに見つかったときは、残弾も尽き、殺意みなぎったティムの暴行に抵抗することもできず、さすがに終わったと観念もした。  スコットランドヤードの特殊班が突入し、犯行グループ全員を制圧して、恭介も事なきを得た。  あの時の「日本人か?我が国の誇る、ロイヤル・オペラへようこそ。日本の歌も知ってるぞ?シ・ニ・ナ・サ・イ」と沖縄出身の歌手のヒット曲の替え歌を披露されたときは、恐ろしさと同時にずいぶん歌の上手いやつだなと思った。  まだ執念深く俺を恨んでいたのか。テロリストのプライドという理解の範囲外のものに、恭介は恐怖を禁じ得なかった。 マリアンナ「お待ちください。もしやその財布のお金は、あなたではない誰かが抜き取ったとおっしゃるですか?」 アルカード「おお、我が妻よ。まさにその通りだ。私はそう思わずにはいられずにいる。」 マリアンナ「あなたはまさか、そのお金を抜き取ったのは、この私だとお疑いではないでしょうね?あなたを愛する、この私が、あなたの大切に扱っているお金を盗んだのだと?この、私が!」  マリアンナ、アルカードから客席へ向き直り、両手で自分を指し示して立ち尽くす。 アンサンブルの歌3(続き)   ああ、何と黒い炎   我が身焦がし焼き伏せる   言葉灰に心塵に   君を愛し信じたくも   手には失意 胸に怒り   いつの間にか 闇の底へ アルカード「ではお前ではないと言うのか?それでは誰がこの金を 抜き取ったと言うのだ?」 マリアンナ「私に判るはずがありません。私はその財布に触れていませんし、その財布を昨夜から今まで見てさえいないのですから」 アルカード「見てさえいない?その見ていない財布が、ここにあったではないか?!」  アルカード、マリアンナに財布を突きつける。  マリアンナよろめいて、目頭を押さえた後、客席を向いて歌いだす。  優子の目は舞台に釘付けになっていた。  開演後すぐには、やや硬かった出演者たちが、今は役になり切ってオリジナルのオペラ作品を見事に作り上げている。  自分が手直しした詩も、まるで生き物のように温度と鼓動を持って場内を駆け巡っていると感じた。誰もがこのオペラを作り上げることに、すべてを注いでいるんだ。すべてを・・・  すべてを注いでいるように見えるかな。このオペラの成功に?  宏史は唇をゆがめ、かすかに含み笑いした。耳のさとい音響の恩田素一が怪訝な顔をしたが、すぐに効果音の操作卓と舞台に目を戻す。  舞台の裏で、影で、暗いものがうごめいているのだ。宏史の胸は怪しくときめいた。  そのクライマックスとして、今からジェニーが歌う声を聴くがいい。まだまだこれからだ。 マリアンナの歌2   誰かお願い教えて欲しい   どこで間違ってしまったのでしょう   AH?,AH?,AH?,AH?・・・   いつも二人は信じ合えたわ   それは互いの愛の証なの   AH?,AH?,AH?,AH?・・・  舞台下手より悪魔登場。二人の様子を見ながら、ほくそえむような仕草。  マリアンナ、睨むアルカードの周りを歩きながら、懇願するように歌う。  ジェニーも加藤かおるも、アンサンブルの面々も、皆感じていた。  違う!いや、今度はそうだ!的成光だ!  この直前、ティム・キャンベルが取り押さえられるのを見て、的成光は緑たちスタッフの前に躍り出た。 「俺の、悪魔の衣装を早く!出るから!俺この後、ちゃんと出て歌うから!」 「一色くん!予備の悪魔の衣装を。的成、ほら仮面」  緑が拾った仮面を的成に手渡しながら、衣装スタッフの一色壮太を促した。  黒いローブが的成に着せられ、仮面を被った的成がフードを頭にかぶって発声練習した。 「よし!よし行ける!歌うんだ!」  的成光はこうして舞台に復帰した。今舞台に立っている悪魔は、ティム・キャンベルに拘束され衣装を奪われる際に「日本人のへたくそシンガーは引っこんでろ。俺が美声を聞かせてやる」とさげすんだ目で見られた。  箱の中の暗闇で泣いていた孤独な時間ほど、歌いたいと渇望した時は無かった。今は喜びを演技に変えて舞台に立っている。  その悪魔の存在を知らぬそぶりで、ジェニーが悲しみを歌い上げる。 マリアンナの歌2(続き)   疑う心に悪魔は微笑む   信じてお願い私はあなたを   AH?,AH?,AH?,AH?・・・   悪魔は心に疑う気持ちを   信じてお願い私はあなたを   AH?,AH?,AH?,AH?・・・  涙を流さんばかりのジェニーの悲痛な声に、観客は息をのむ。美しく幸せな輝きを放っていたマリアンナが、今急転直下の挫折に見舞われたのを目にしているのだ。 アルカード「ええい、もう良い!この私に近づいたのも、すべて私の財産目当てだったのであろうが、この裏切り者め!」 マリアンナ「そんな!私は本当に、あなたを」 アルカード「もう何も聞きたくない!お前の顔など見たくも無い!出て行け!今すぐこの城から出て行け!二度と私に近寄るな!」  マリアンナ、泣き崩れるように舞台下手へ立ち去る。  アルカード、手にした財布をやりきれない表情で見た後、舞台上手へ憮然と立ち去る。  アンサンブル、アルカードに影のように付きしたがって退場する。  ジノ、部屋の壁の背景から歩み出て、ニタリと笑って、舞台上手へ嬉々として立ち去る。  悪魔、悠々と舞台上手へ立ち去る。  暗転。           第十一章 これこそが破滅ぞ 「恭介!」  ジェニーが青ざめる。それは悲しみの演技のせいでもあるだろうが、その眼は恋人である青年探偵の胸から流れる赤い液体に向けられている。 「大丈夫だよ」  少し呻いて胸を押さえながらも、しっかりとした声で恭介は答えた。  テロリストの凶刃は確かに彼の胸に突き立てられた。だが恭介はブレザージャケットの左胸内ポケットにトランシーバの本体を入れていた。ナイフはその小型装置をグサリと貫いて、恭介の胸に1センチほど食い込んだ。  出血しているが、重症ではない。  警備員を襲ったナイフに違いなかったが、ティム・キャンベルは犯行予告状は自分が出したものではないと言ったきり、黙秘を続けている。「俺は世話になった日本人のボーイに、挨拶に来ただけだ」と恭介に凶悪な目を向けながら。 「運が良かったな、探偵」  刑事の一人が、次のシーンのために急いで立ち去ったジェニーを見送りながら、声をかけてきた。 「おかげさまで。でも無線が使えなくなったな」 「代わりのを用意してもらうか?それに手当も受けろよ」  刑事の気遣いを片手で制しながら、恭介は駆け出した。 「気になることがあるので行きます!」  城を遠くに見る森の小道。マリアンナ、舞台中央に膝を突いて泣いている。  照明、やや赤い照明で舞台奥を照らし、マリアンナにスポットライトを当てる。  マリアンナ、顔を上げて客席に向かって歌い始める。 マリアンナの歌3   この残照に焼き尽くされて   私も燃え尽きられたら   今でも愛しいあの人は   哀れんでくれるかしら   私が信じてきたものは   いったい何だったのでしょう   口付け交わし 腕(かいな)に抱かれ   いつも語った あの言葉は・・・   この残照の美しきこと   私の涙によく似て   今でも愛しいあの日々を   悲しく見つめているの   私が愛してきた人は   いったい誰だったのでしょう   突き放されて しとねを追われ   罵られても 帰りたくて・・・  見る者の涙を誘う、悄然とした悲しみのアリア(独唱)だ。  マリアンナは泣いていない。が、桐村優子はその眼に、深い色の涙を見る気がした。  それにしてもあの少女、二階席のスタッフブースと、天井を交互に見ていたような? マリアンナ「どうしてあの人は、私を信じてくださらないのでしょう?こんなにあの人を愛しているのに、私はあの城へ帰れない。もう日が沈む。残照も消えて、夜の帳(とばり)が訪れる。この場を立ち去りたくても、もう少しあの城の近くにいたい。残照にぽつりと浮かぶ、あの城に・・・」  暗転。  マリアンナ、舞台上手へ退場する。  ジェニーは刑事の一人に声をかけた。 「恭介に、東探偵に行ってはいけないと連絡してください。危ない真似はやめてと!」 「探偵は無線機を壊して、今は連絡が取れないそうだ・・・どこに行ってはいけないって?」  ジェニーは顔をゆがめて黙り込んだ後、意を決したように言った。 「ヒロシと、父の所へです」  城の居間。舞台奥には暖炉。真っ赤に燃える薪が詰まれている。テーブルを中央に、その上に酒のビン。椅子を用意し、それにアルカードが座る。  ジノ、アルカードのそばに立つ。 アルカード「あの恩知らずの女め。プリマドンナと言われてどれだけちやほやされていたか知らないが、旅の踊り子風情を城の妃に迎えて何不自由ない暮らしをさせていたものを」  アルカード、酒をグラスに注いで一気にあおるしぐさをして、乱暴にグラスをテーブルに置き、酔っ払ったように椅子の背にもたれる。 ジノ「まったく呆れたものでございますね。旦那様のお人の良さにつけ込んで」 アルカード「まったく!あんな町娘などに惚れ込むとは、私もやきが回ったものだ。ジノ、お前は本当によく私に仕えてくれるな。今回のことも、お前の忠言が無ければ、あの女の所業と判らなかったかも知れない」  加藤かおるの演技は見事だ。本当に酔っぱらっているように見える。  ジノ、動揺したように顔の前で手を振る。 ジノ「と、とんでもございません。私はいつでも、旦那様の忠実なしもべですから。ど、どれ。新しい酒のビンを持ってまいりましょう」  ジノ、椅子から立ち上がる。立ち去りかけたそのチョッキのポケットから、コインが数枚こぼれ落ちる。  チャリチャリーンと効果音がタイミングよく入る。恩田素一の音出しは、やはりさすがだ。あちこちの舞台やイベントで評判のいい音響エンジニアだからなあ。 アルカード「何だ、これは?金貨?銀貨も?・・・ジノ、お前なぜこんなに金を持っている?」 ジノ「い、いえ、これはちょっと・・・その、町で賭け事をして、なぜかバカヅキしていたもので」  薄ら笑いを浮かべたその時、上着のポケットの底が破れ、大量のコインが床に散らばる。  慌てて拾うジノ。  それを見つめ、口を開けて驚きの表情をするアルカード。 アルカード「ジノ、お前、まさか。まさかお前が、この財布の中身を・・・」  アルカード、テーブルに置いてあった空の財布を持ち上げる。 ジノ「め、めっそうもございません。わ、わたくしに、そんな大それたこと、出来ようはずが・・・」  しどろもどろで後じさるジノを、椅子から立って詰め寄るアルカード。 アルカード「ではこの金は何だ?お前がコツコツ溜めたものだとでも言うのか?それとも全部バクチで稼いだとでも?こんなたくさんの金貨、そう簡単に手にできるものではないぞ?どういうことだ?」  ただの声楽家にしておくには惜しい演技力だ。加藤かおるを起用して、本当に良かったなあ。彼はオペラの申し子だ。あいつの奥さんがプロデューサーだが、いい仕事をするものだ。  壁際へ追い詰められ、ついに観念したように虚勢を張った態度をするジノ。 ジノ「そうとも!あんたの金を盗んだのは、この俺様だよ!かわいそうにあんたの奥様ときたら、俺の嘘をすっかり信じ込んだあんたに追い出されて・・・」 アルカード「な、何!?」  小野小市の豹変ぶりも素晴らしい。動揺したリアクションをする加藤もしかり。  悪魔、舞台上手より歩み出て、悠然と歌い始める。  アンサンブル、黒い衣装で悪魔の喜びを表すように踊る。 悪魔の歌3   今こそ絶望の淵へ   汝をいざない行く   この世は痛みに満ち   心が血を流して   闇に落ちる   さらなる悲しみの渦へ   怒りと憎しみ連れ   命を炎に投げ   魂我が手中に   狂い落ちよ アルカード「この不届き者め!成敗してくれる!」  部屋の隅に安置されていた剣を取り上げ抜き放ち、怒りの形相でジノに切りかかるアルカード。  悲鳴を上げながら逃げ回るジノ。  それを見て嘲笑う悪魔。  アンサンブル、混乱を表すように踊る。  ジノ、逃げ回りながら、辺りの物を手当たり次第にアルカードに投げつける。やがて暖炉の燃えている薪までも投げる。 アルカード「こら!火のついた薪を投げるな。火事になったらどうするのだ。あっ、じゅうたんに燃え移ってしまう。誰か、誰か水を持ってきてくれ!火事だ、火事だ!」  照明、真っ赤な照明を舞台全体に当てる。  アルカード、燃え上がる火を前にうろたえる。  ジノ、舞台上手へ逃げ去る。  悪魔、高笑いしながら舞台下手へ退場する。アンサンブルも続いて退場する。  おお、今の歌声と笑い声は、的成光じゃないか。  するとティムはしくじったな。  そろそろ決着をつけるか。  天井のキャットウォークにいる男は、ニヤリと笑って早川宏史がいる方を見やった。  どうやら自分の娘も、舞台からこっちをたびたびうかがっていたところからして、俺の存在に気付いたようだしな。 アルカード「誰もいないのか?もう間に合わない。城が燃えてしまうぞ!」  照明、舞台を暗くする。  アルカード、暗闇で叫ぶ。 アルカード「助けてくれ!誰か!ああ、マリアンナーっ」  暗闇に響く声が、破滅に陥った悲痛さをものの見事に表現していた。  暗転。  アルカード、舞台上手へ退場する。           第十二章 救いの手は差し伸べられるのか  城を遠くに見る森の小道。マリアンナ、舞台中央に呆然と座り込んでいる。  照明、スポットライトを舞台中央のマリアンナに当て、城の手前のアップライト(赤)を、火のイメージで点灯させる。  照明班は舞台にアップライトを、暗転中に据え付けるのに苦労していたな。危ないからやめようと何回も言われたが、彼らの目はいつもわくわくと高揚していた。俺は彼ら「出来たら達成感あるぞ〜」とあおってやったっけな。  宏史舞台を観ながら感慨にふけっている自分に気が付いて驚いた。  俺は、俺はどうしたのか? マリアンナ「城が、城が燃えている!アルカード!」  マリアンナ、城へ向かって走るように、舞台上手へ立ち去る。  暗転。  物語は終盤へ向かって、加速した展開になる。さっきからあいつが俺に目線を送ってきていた。  見届けずに、この命を差し出すことになるか?  まあいい。いつか来るはずの、約束の時だ。  そろそろ行くか。  早川宏史はスタッフブースを離れ、客席後ろの通路を歩き始めた。警備員や刑事たちの目線を浴びたが、何食わぬ顔をして。  そう、いつも俺はこう振る舞っていた。今ここにいる俺だって、演じているのだ。生まれてからずっと、こういう俺を。  演じろ。演じ続けるんだ。  焼け崩れる城の中、アルカード、舞台中央で右往左往する。  照明、赤いライトを舞台全体に当てる。 アルカード「うわ、こっちはすごい炎だ。こっちもダメだ。どこへ、どこへ逃げたらいいんだ」  マリアンナ、舞台下手から走って登場する。 マリアンナ「アルカード!無事なの?」 アルカード「マリアンナか?!なぜ戻ってきた」 マリアンナ「城が火事になっているのが見えて、あなたが心配で。さあ、早く逃げないと、ここも火が回ってしまうわ」 アルカード「マリアンナ、私は君にひどいことを。あの金を盗んだのはジノだったのに、君を疑うなんて、私はどうかしていた」 マリアンナ「今はそんなことはいいから、早く逃げましょう」 アルカード「しかしもう火が回ってきた。間に合わない」 マリアンナ「諦めないで!一緒に逃げて、二人ですべてやり直すの!こっちへ」 アルカード「マリアンナ、気でもちがったのか?!そっちはものすごい火の手が」 マリアンナ「この火の壁の向こうは、まだそれほど燃えていないの。ここを走り抜ければ、大丈夫。お願い、私を信じて」  観客は吸い込まれるように舞台に見入った。今この状況で二人がする行為は、一つしか考えられない。そのくらい二人は、愛する夫婦になり切っていた。  マリアンナ、アルカードにキスする。  アルカード、マリアンナを抱きしめ、その目をしっかり見つめてうなずく。  マリアンナ、アルカードの手を握って、舞台下手へ、炎に顔をしかめるようにしながら走り出す。  アルカード、片手で顔を覆うようにしながら、マリアンナに手を引かれて走って退場する。  暗転。  暗闇でたくさんの人たちが思った。  アルカードに手は差し伸べられた。  だが、その手は間に合ったのか?           第十三章 命を生み出す神になる  瓦礫になった城が遠くに見える森の小道。  照明、舞台中央にスポットライトを当てる。舞台奥は暗いまま。  マリアンナ、舞台中央で自分の膝を枕に寝ているアルカードの、顔を見下ろすように座っている。 マリアンナ「アルカード。アルカード。どうしよう、気を失ったまま目を覚まさない。あちこちに火傷を負って、呼吸も弱くなっているのに、私一人ではどう手当てしたらいいかもわからないし、この人を町の医者へ連れて行くこともできない。」  そう言うマリアンナの顔は少しすす汚れで黒い部分がある。メイクの色麻冴子が暗転の間に施した化粧だ。火事場を抜け出ることで、力尽きたマリアンナが、会場中からもう歩く力もないほど疲れて見える。  髪もヘアメイクの細野結が、マリアンナもアルカードも早業でかき乱して、その状態で整えた。二人のスタッフは今、興奮状態でこの場面の演技を見守っているだろう。冷静に自分の仕事の見栄えも観察しているだろう。  最後まできちんと作り上げたい。誰もがそう思っている。  恭介は二階のロビーへたどり着き、どこへ行くか迷った。  気になる場所1:早川宏史、白井来人、恩田素一がいる、音響・照明スタッフブース。  特に早川宏史がどうしているのか気になる。またその周辺の二階貴賓席に、「着席していない人物がいるかどうか」気になる。  気になる場所2:上手のキャットウォークへ行ける、関係者通用口。  早川宏史がそこへ行って、すぐに戻ってきたという話を刑事から聞いた。あの時彼は、何をしに行ったのか?彼自身は違う場所から舞台を観てチェックしたかったと言ったが、本当にそうか?  目の前に選択肢が突きつけられた。スタッフブースか?関係者通用口か?1か?2か?  2だ!  恭介は上手の方へ急いだ。何かそこにある。探偵の勘が根拠のすべてだった。  ああ東恭介、その選択は正しいのか?  恭介の耳に、美しいジェニーの歌声が聞こえてきた。  マリアンナ、わっと泣くように両手で顔を覆う。その手を離し、アルカードの乱れた髪を撫でながら、悲しそうに独白する。 マリアンナ「お願いアルカード、私の声を聞いて。目を覚まして、一緒に町へ行って。もうすぐ夜も明けるわ」 マリアンナの歌4   森は命を抱いたまま   夜明け前を眠りで閉ざす   やがて白みだす空を   あなたを抱いたまま   私は見ているわ   風のささやき   木々のざわめき   暗がりの森   月の冷たさ   あなたを愛するこの心が   今は凍り付いているのよ  マリアンナ、アルカードをそっと膝から下ろして横たわらせ、立ち上がって客席に向かって歌う。  観客がみんな自分を見ている。この舞台に立てて良かった。素晴らしい眺めだ。  そしてもう少しだ。もう少しで、すべての答えを出せる。  恭介は関係者通用口の警備員に頼んで、中へ入れてもらった。階段が上下へ続いており、一階にも降りられるし、上へ行けば天井のキャットウォークへ行ける。そのどちらかへ早川宏史は行ったのか?だが彼はすぐに戻ってきた。きっと「どっちにも行かなかった」。なぜだ?  あたりを見回すと、チラシが落ちていた。  拾い上げてみると、このオペラ「残照の孤城」のチラシだった。  このチラシは・・・、OPELA?どうしてRがLに書き換えてあるんだ?  黒マジックで演目タイトルの、OPERAという文字のRが×で消され、その上にLと書いてあるのだ。  RとL、RightとLeft?右ではなくて、左に変更?・・・しまった! マリアンナの歌4(続き)   森の命はちろちろと   朝の日差しにその目覚ます   きっと訪れる朝が   あなたをこの腕に   返してくれるはず   夜露が光り   鳥のさえずり   こずえが揺れて   つぼみが開く   私はすべてを抱き寄せるわ   あなたを愛しつづけるのよ  照明、朝日のイメージで舞台奥を明るくする。  マリアンナ、命を生み出す神になる。  その一行にどれほど悩んだことかと、ジェニーは歌いながら思い出す。  こんなこと書いて、きっとヒロシは私を嫌いになったんだ。ニューヨークから連れてきたのも、実は私をひどい目に合わせたかったんじゃないかと思った。  目を背けてきた過去の記憶に、この一年をかけて正面から向き合った。  まだジュニアハイスクールに入ったばかりの頃、父がヒロシを連れて訪ねてきた。少し言い争った母も、ヒロシと言う客がいる手前か愛想よく食事で歓迎した。  ニューヨークを観て回りたいからと、しばらく宿泊することになったヒロシ。父もずっとうちにいたけど、ヒロシとは別行動だった。  ヒロシに演劇の話を聞くのが楽しみだった毎日。心優しく、誠実に、それでいてどこかさびしげに話すヒロシに、私は恋心を抱いていた。  あるときヒロシが父と言い争っていた。  その内容は今なら理解できる。父はテロの実行計画を立てて、毎日仲間と連絡を取りに行っていた。ヒロシはそのことを知って、動かぬ証拠を見つけて、警察に通報した。  そのことを知った父が激怒していた。 「お前のためだ!それに俺は、ジェニーをテロリストの娘のままでいさせたくない!ジェニーを愛してるんだ!」 「ジェニーはまだ13だぞ!お前ワイフがいるんだろう?!」  ああ、胸を締め付ける二人の言葉。あの後の火災で、父は死んだと思っていた。だがテロリスト、シン・黒井の名前は、その後も報道で目にした。父は生きている。憎悪を世にまき散らし続けている。  その恐怖を紛らわせるために自分は歌っていた。歌っている間、みんなが目を輝かせて自分の歌を聴いて、小銭をくれてまた歌ってくれと言われるのが嬉しかった。  ヒロシに再会した時は、いろいろな傷口が開きそうで戸惑った。  オペラだ。君のために僕が作った。歌ってくれ。  その言葉が、私を日本へ向かわせた。  そこへあの台本の謎の一行だ。ヒロシは自分で考えろと言う。周りの役者さんに訊いても、あいまいな言葉でしか答えてもらえない。  そんなとき、恭介が・・・ 「なんだ、そういうことか!」  台本を何度も読み返して、彼がニコッと微笑んだ。 「アルカードは重傷で死にかけている。マリアンナも疲れ切って動けない。命が危ないんだ。」  今演じている、この場面の状況は確かにそうだ。 「そういう時に必要なのは、生きようと言う意志だ。そのための希望だ。希望を生み出す、何か楽しかったり美しいと思わせてくれるもの・・・歌だよ」  歌?歌で希望を生み出せと? 「そう。そのことがこの二人を奮い立たせ、二人を町まで歩かせ、医者の所へ駈け込んで、アルカードも一命を取り留める。そういう信じられないドラマを起こすほどの、感動的な歌を歌えと言う意味だよ。それが命を生み出す神になる、という表現で書かれているんだ。これは早川宏史の戯曲という、芸術作品だからね」  まさか演劇の外にいる、探偵に謎解きをされるとは思わなかった。目からうろこが落ちた気持ちになって、あの日ジェニーは心から笑った。  そしてその瞬間に解ったのだ。ヒロシの本当の願いに。さっきそのことを、劇場の音声通信を使ってヒロシに伝えた。根拠がはっきりしないけど、どうしても今回の事件解決に必要だと思うからと。 「知ってるわ。あなたが私を憎んでいることは。あなたは私を抱いた事で、自分の心の傷口を開いてしまったの。私への罪悪感も入り交じって、あなたは私をこの世から消してしまいたいと思っているのね」 「ジェニー、今この場でそんな話をするのは・・・」  ヒロシのそばには、音響と照明のスタッフがいて、警察も聞き耳を立ててるものね。 「でもね、感謝しているのよ。有り難う、チャンスをくれて。私、歌いきってみせる。自分の持っているすべてで、あなたの本当の願いに応えるわ」 「本当の願い?」 「あなた自身が、今日この場で気付くべきことよ。ヒロシ、愛してるわ」  だから今こそ、歌わねばならない。歌い切るんだ。オペラを止めるな。  歌える筈がない。  自分を待つ者がいる場所へと移動しながら、早川宏史は思った。  ジェニーのキーでは出ない筈の声域に「わざわざ」ここからのメロディを持って行ったんだ。  火災をシナリオに入れたのも、かつてジェニーを抱くことになったあのことを思い出させるためだ。俺のシナリオの罠だ。  慎と争った後、ジェニーを連れ出し、ジェニーの叔父だと言う人物と交渉して彼女の養育を頼んだ。送金の約束もして。  目覚めたジェニーが泣きながら震えているのを見て、俺は愛しくてどうしようもなくなり、まだ幼いジェニーを抱いた。口づけ、愛撫し、俺自身の高まった気持ちを注ぎ込んだ。  呆然とする行為後のジェニーに、ただただ愛してると言い続けた。あれも俺の演技だったのだろうか・・・  そして火災は俺の人生から大切なものを奪った悪魔でもある。家を飛び出し、帰ってみたら家は焼け落ち、千枝子母さんと良介父さんが無くなったことを知った。あの時泣いていた自分は、そういう自分を演じていたのか?それとも心から泣いていたのかわからない。俺とジェニーの生い立ちは似ている気がする。  その君が、今ここで破滅する様を見せてくれ。所詮人は哀しみを克服することなど出来ない、脆弱で取るに足らない存在なのだと、その可憐な肉体で証明してくれ。  俺自身もそのことで、今のそらぞらしい人生を演じることをやめられるかもしれないんだ。  大丈夫、歌える!  ジェニーは観客席へ両手を広げ、朝日を思わせる照明を背負ってすっくと立った。 マリアンナの歌4(続き2)   苦しみを超え   愛しさ芽生え  むっ!?  新田新は瞬時に悟った。稽古やリハーサルの時よりも、ジェニーは高いキーで歌おうとしている。  もともと歌えなかったはずの原曲のキー。どうしても歌えないというジェニーのために、新田は早川宏史と激しく口論したあげく、強引にキーを下げるように指示した。自分が指揮するオーケストラなのだから、歌手が歌えない演奏にはしないと。  しかしそのせいで歌の持つパワーが、半減以下になったのは否定できなかった。  ジェニーもそのことを気にして、毎日居残ってなんとか高い原曲のキーで歌えないかとレッスンしていたが、ついにそれはかなわなかった。  だが今のフレーズでだんだん高くなっていくキー、あふれる声量。今ジェニーは、これまでとは違う声を生み出そうとしている。まるで新たな命のように。  演奏を変えるぞ!キーをアップ!アップ!  新田がオーケストラを睨み付け、必死に手振りで指示を出す。  するとすべての楽器奏者が、意図をくみ取り、キーをジェニーの声をたどるようにあげて演奏し始めた!  やった!行けるぞ!  新田は歓喜した。   憎しみ薄れ   光が満ちる  観客はジェニーを見つめ、驚愕した。いきなり神々しく聞こえていたこの声は?  今目の前にいるのは、いったい何者か?  口を開いて呆然と聴き入る者もいる。  涙があふれて止まらなくなった者もいる。  おおと、思わず呻く者もいる。  両手をギュッと合わせ、祈るように見る者もいる。  まるで礼拝のようだ。  まるで神を見るようだ。   私は朝日を抱きしめるわ   あなたを愛しつづけるのよ  わずかのフレーズだった筈だ。それは事実だ。  だが観客は膨大な感動を覚えていた。泣き出す者がたくさんいた。  照明、舞台全体を明るくする。  アルカード、目を覚ます。 アルカード「ま、マリアンナ」 マリアンナ「アルカード!」  マリアンナ、アルカードを抱きしめる。  幕下ろす。  そういう台本だ。  たったそれだけだ。  だがそこにはとてつもないスケールのものが生まれていた。  観客が総立ちになって、狂ったように拍手をし始めたのだ。  桐村優子も同様で、拍手しながら大きな声でひとりごちた。 「素晴らしい。まるで生きるということへの、希望が溢れるような歌声だった。聞いている人に、人を愛そう、愛する人と生きようって訴えるようだったわ」  するとその隣で、奇跡が起きていた。羽白雅子が隣の息子を凝視している。 「良平?」  優子も驚いた。生気を失ってじっと動かなかった羽白良平が、今もがくように椅子の肘掛けに両手をついて、震えながら立ち上がろうとしていた。 「あ、あ、あ・・・」  言葉にならない思いを口から洩らしながら良平は遠い日に出合った、そして二度と会うことの出来ない少女の、別れ際の言葉を思い出した。  しっかり生きるのよ・・・ 「ああ、ああ、ああ・・・」  ついに良平は滂沱の涙を流した。  母の雅子も泣き出した。優子ももらい泣きしてつぶやいた。 「素晴らしい、本当に素晴らしい日だわ。こんなに感動出来るなんて、詩を続けていて良かった。」  彼女の脳裏にも、かつて出会った二度と会えない、幻のような青年の笑顔がよぎった。  今すべての思春期の思いが、美しい思い出になろうとしていた。  恭介は走った。怪我も痛んだ。疲れてもいた。間に合うのか?という焦りもある。  さっきのチラシに、L以外にも書かれていたことがある。 「マリアンナの歌4」  それが今のジェニーの歌だ。素晴らしい歌声だった。ジェニーはやり切ったんだ。  その歌のタイミングで落ち合おうと言うことが、あのチラシに書かれていたのだと恭介は思った。  最初はもっと前のタイミングだと言われていた。場所は上手の関係者通用口のところ。だから宏史は行った。  ところがこのチラシがあるだけで、約束の相手はいなかった。これを見て、時間と場所が変更になったと知ったはずだ。おそらくその変更は最初から予定されていた。まず宏史が約束を守るかどうかを試し、実際の時刻と場所は変更と言う形で知らせたかったんだろう。用心深いやつだ。  場所は・・・RightではなくLeft。左側=下手の通用口だ!  恭介はその扉を開けたところで、数メートル先の宏史を見つけて走って追いつき、その手を引いてロビーに戻った。  間に合った・・・ 「どういう事ですか?ニューヨークからやってきたテロリスト、シン・黒井。奴のことを、あなたはどの程度知っているんですか?」  睨み付ける東恭介の鋭い目に身じろぎもせず、宏史は言った。 「私は一介の劇作家に過ぎないよ、探偵さん。テロリストのことなど、何も知らない」  だけど!  恭介がそう言いかけた時、早川宏史は涙を流し始めた。 「と言うつもりだったが、頼みを聞いてもらえるかな?恭介君」  一つ深呼吸して、恭介は目の前の友人に、しょうがないなという表情を向けた。  スタンディングオベーションから、カーテンコールの手拍子へと移り変わる二階席へ踏み込み、恭介は警備の刑事に事情を手短に話した。 「早川宏史は絶対逃げませんから、堂野警部によろしく伝えてください。それからこっちにも応援を呼び集めてください。先に行きます!」 「おい、探偵!」  刑事の咎めるような声がしたが、勝手なことをするなと止める様子は無かった。今日配備されている刑事たちは、みんな堂野警部から恭介のロンドンでの活躍を聞き及んでいる。警備畑の警官たちだが、凶悪なテロリストと渡り合った者ばかりではない。東恭介という探偵に一目を置いて、協力的な彼らがいてこそ、今自分はこの事態を収拾できそうになっている。  ジェニーを守る。そのために!  恭介は下手の通用口から天井のキャットウォークへ上り出た。見渡せば場内中央の近くに人影が見える。  よし、行くか。  早川宏史は舞台袖に移動していた。歩きながら涙があふれて止まらなかった。  宏史は15歳で養父母を火災で失った。その前に幼少時に実母とは死別していることを、火災の直前に養父から聞かされた。  幼馴染の野本緑の父母に引き取られたが、早川姓のままを希望して養育してもらった。緑の家は野本財閥。自分にはなじめない環境だった。関わりを極力避けたいと思った。  高校入学時から戯曲の執筆活動を始めた。17歳で新人作家賞を受賞した。  大学では演劇部に所属し、その手腕を高く評価した劇団から脚本を依頼されたが、宏史があまりに演出に注文を付けるので、舞台の演出をやってみろと任された。彼らが望んでいたのは宏史の失敗・挫折に他ならなかったはずだ。その舞台を成功させ、演劇界での名声を得て、21歳で野本緑の興した個人事務所の専属劇作家になった。ただ淡々と仕事に打ち込んだ成果だった。  この直前に野本緑と性交渉を持ち、交際を始め、大学卒業を待って緑と結婚した。  しかし挙式直後に理由を告げずに、海外へ遊学の旅に出た。1年で帰国したときには、「欧米で演劇の勉強をしていた」とだけ、緑にも演劇関係者にもコメントした。  その旅程でニューヨークの黒井家に滞在。テロリストだった夫妻の活動計画をリークし、ニューヨーク州警による婦人の追跡中の事故死と、シンの失踪のきっかけを作った。  取り残されたジェニーを励ました際、13歳だったジェニーと性交渉を持った。  きっとシンにはすべて知られているだろう。罪悪感に苛まれ続けた日々。許してはもらえないだろう。  すべては俺自身の弱さから、優等生である自分を演じ続けた偽りの人生、それが生み出した罪だ。  何もかも壊したかった。ジェニーを愛するがゆえに、その存在を受け入れられない自分がいた。ジェニーを破滅に追い込むことで、自分自信も破滅に導きたかった。このオペラが失敗すれば、俺は何もかも失う。それが望みだった。  そのために、俺は慎の名前のテロ予告状を出したんだ。最後は俺自身が死ぬつもりだった。VIPと呼ばれるほどの立場ではないが、名の知れた劇作家が殺害されたという結末を用意したつもりだった。  殺害するのはティム・キャンベル。ツテをたどって連絡を取り、多額の報酬とともに仕事を依頼した。恭介君に含むところがあるのなら、それも好きにしたらいいと言ったら応じてくれた。  だが俺もどこかで期待していたのだろう。ティム・キャンベルと知己のシン・黒井。彼が代わって俺を殺しに来ることを。期待通りにあいつはやってきた。そして俺に会いたいと連絡してきた。会ってすべてを詫びるもよし、やはりジェニーの父親がテロリストであることは許せないと罵るもよし。これまでのすべてを捨てて、自分の心からの言葉で対峙したかった。  だけどジェニーがそれに気づいていた。そしてジェニーは、俺に「本当の願いに気付くべき」だと言った。今ならそれがわかる。  ジェニーが歌い切ってくれて、本当に良かったと思った。このオペラが完成し、成功し、観客を魅了して、本当に良かった。これほどそのことが嬉しいとは。  「そうか、俺は・・・」  いつの間にか、自分の口から声が出ていた。 「信じたかったんだ。誰もが愛し合っていると。どんなに傷つけあっても、きっと分かり合えると。俺が、父さんや母さんや緑やジェニーや、黒井のことも、みんな愛していると信じたかったんだ。そして・・・愛しているんだ」  カーテンコールの形式を取ったフィナーレへ出ていく出演者たちを見送るスタッフの熱気に満ちた舞台袖へ、宏史は今足を踏み入れた。そして歓声に迎えられた。  観客の手拍子が長々と鳴り止まない。その末に、ついに幕が再び上がって、ジェニーと加藤かおる、二人の主人公が深々と頭を垂れた。  万雷の拍手が響く。  やがて二人は頭を上げ、一瞬顔を見合わせてにっこり笑った後、舞台の上手にジェニー、下手に加藤が歩いて行って、オーケストラの演奏に合わせて歌い始めた。  Take me out to the opera♪  Take me out to the opera♪  Opera! Opera! Opera, so joiful  弾むようなリズムに合わせて、楽しげに歌う二人。観客が立ったまま手拍子を合わせる。  そして出演者が順に舞台に登場して、観客に頭を下げて喝采を浴びるのだった。  ブレザージャケットを着た男が近づいてきたのを見て、郷田絢爛がキャットウォーク上で向き直った。 「ヒロシか・・・いや、お前誰だ?」  シン・黒井はナイフを取り出した。早川宏史も今日はブレザージャケット姿だったから、他の人間であるはずがないと思って油断したのを悔やんでいた。 「黒井っ!」  掴みかかるのは東恭介だ。  彼がさっき二階席へ行ったとき、一つだけ空席があった。あれは?と刑事に訊くと、郷田絢爛が長時間席を外して戻って来てないという。それならと郷田のデザインした衣装を引き継いだ、衣装スタッフの一色壮太を問い詰めたら、実は今日来ている人物は郷田に変装している別の人物で、それに気付いたときに脅されて黙っていたという。演目のスタッフであれば、通用口を通るときにも警備員は怪しまない。もう一人のテロリストは、こうして潜入に成功していた。その狙いは早川宏史との接触、そして殺害だった。  狭いキャットウォークの床を転がりながら、殺人鬼のナイフは恭介の喉元へ振り下ろされた。 「!」  見開いた恭介の目が見たものは、自分の片腕がかろうじて掴みとめた、テロリストの腕だった。ナイフがじりじりと震えながら押し込まれてくる。 「ふんっ」  力を込めて相手を横へはねのけ、ナイフを奪おうと馬乗りになる。  すごい力で転がされ、またナイフを振り下ろされそうになる。  取っ組み合いの末、立ち上がって手すりの外へ押し出されるような形になり、手すりを両手で掴んでこらえる。  自由になった右手に握ったナイフを、嬉々として黒井が振りかぶって突き出してきた。  身を沈めながら恭介は、足を払った。  つんのめった黒井が手すりを乗り越えて、沸きかえる観客席へ落下していく。  それを掴みとめ、渾身の力で引き上げる。じたばたと暴れる黒井。握ったまま話さないナイフで、恭介の腕を切りつけようとしたところで、腕を首に回して喉仏を圧迫するように締め上げた。  チョークスリーパーで落ちかけた黒井がナイフを手放しそうになったところで、刑事たちが駆け付けてきて一緒に黒井を取り押さえてナイフも奪った。 「ムチャをする奴だな、探偵!」  肩で息をしながら、恭介は苦笑した。とたんに胸の傷口が開いて、出血がひどくなった。 「お、おい!」  刑事たちが慌てて、手当をしろと叫んだ。  Opera! Opera! It’s so funny opera!  Take me out to the o〜pe〜ra〜♪  歌のフィニッシュとともに、出演者全員がステージに並んで、観客に向かって両手を広げ、お辞儀をした。  場内に拍手が満ちる。  それを舞台袖でモニター越しに見ながら、野本緑は夫をねぎらいに行った。 「何とか無事に初日を終えたわね。この分ならきっとこの公演、成功するわよ。良かったわね。ん?」  けげんな顔で宏史のうつむいた顔を覗き込む。 「あらやだ、泣いてるの?バカねぇ、我慢なんかしなくていいのよ、ほらほら」  緑は愛しくなって、宏史の頭を抱き寄せ、ギュッと抱擁した。  胸の中で子供の様に、早川宏史が泣き声を上げた。  しばらくそれを見守った後、咳払いをして堂野警部が近づいた。 「早川宏史さん、今回の事件の重要参考人として、署までご同行いただきたい」  え?!と抗議の声を上げようとする緑を制して、宏史が涙を流したまま笑顔を向けてきた。 「すまないが、ちょっとここのことを頼むよ。俺にはいつも君が必要だった。今も君にしか頼めない」 「は?何言ってんの?もう、しょうがないなあ。行ってらっしゃい」  緑は顔を赤くして、何か事情があるらしい夫を警官たちへ差し出した。そして眉を寄せて、ほろりと涙を流した。  鳴り止まない拍手の中、ジェニーは下手の舞台袖へ戻った。  宏史は・・・いなかった。緑さんが涙を指で拭きながら笑っている。  そして恭介が・・・、胸の傷を押さえながら、静かな目で見つめていた。もうすべて終わったと、その眼が言っていた。  ああ何か、とても切ない気持ちになる。  でも今とてもすがすがしい気持ちにもなる。  一つのオペラが、ここに生まれたから。  ジェニーの頬を熱いものが流れ落ちた。そして笑顔で、恭介を見つめ返すのだった。 (完)